2011年04月01日

うぐいす

先日、隅田川沿いを歩いていたら、
二分咲きの桜の枝に数羽のうぐいすを
見つけました。
震災・津波・原発と、日本にとって大変な
時を迎えていますが、季節はめぐっています。
今は日本人が心を合わせて
立ち向かう時だと思っています。

ところで、部員の皆様、
少しはブログ書いたらどうなの?

2011年03月09日

勝小吉

今月の勝海舟の特集で、残念ながらページの関係で多く触れられなかったのが、
海舟のお父さん、勝小吉。
この人、まるで『鬼平犯科帳』の長谷川平蔵が「本所の銕」と呼ばれて暴れまわって
いた若い頃を彷彿させるような痛快無類の人物。
旗本の殿様(とはいえ食べるのがやっとの貧乏暮らしだが)なのに、二度も江戸を出奔。
父や兄から呆れられて、しばらく座敷牢にぶち込まれてしまう。
剣聖・男谷精一郎の叔父にあたるので、剣の腕は滅法強く、本所界隈の「顔」。
その一方で面倒見がすこぶるよくて、困っている者がいれば助けずにはおれず、
もともと金がないくせに、有り金全部渡してしまうようなところがある。
刀剣の目利きなどで何とか日銭を得るが、勝家はいつも火の車だった。
そんな父親の背中を見ながら、海舟は育つのである。
後年、江戸開城前に、海舟が江戸中の火消しや博徒のもとを自ら訪ねて、
「いざという時には江戸に火をかけるので、市民を避難させてほしい」と
伝法な口調で頼んだというのは、まさに小吉の血ではないか。
そんな小吉は自伝『夢酔独言』を書き残し、子孫に「俺の真似はするなよ」と
言ったという。
まさに快男児。『夢酔独言』も面白いので、ぜひ読んでみてください。(辰)

2011年03月08日

むむむ?

完全に眠ってますね、このブログ。
編集部に有力新メンバーも加入していることですし、
そろそろ目を覚ましてもいい頃ですね。
今後に期待しましょう。
先月は校了の時期に派手に風邪をひきました。
まだ寒暖の差が激しいですので、
皆様もお気をつけください。

2010年06月28日

真田幸村像

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真田ファンにはおなじみの(!?)上田駅前、幸村像です。

2010年06月25日

信濃国分寺(三重塔)

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上田市の信濃国分寺の三重塔は、室町期の創建とされ、
重要文化財に指定されています。

信濃国分寺は、慶長5年(1600)、徳川秀忠の命を受けた真田信幸が昌幸と会い、降伏交渉をした地とされます。

一時は昌幸も応じる気配を示しましたが、それは時間稼ぎのためにすぎませんでした。

ところで、中山道を進んだ徳川軍の上田城攻撃は、昌幸に翻弄された秀忠の若気の至りであった…、
といわれることがありますが、それは誤解のようです。

秀忠が諸方面に送った諸状には、「信州真田表仕置」のためとあるように、秀忠軍が中山道を進軍したのは、東軍一色に染まった信州の中で、唯一反旗を翻した昌幸を従えるためでした。

つまり、上田城攻撃は家康の命令によるもので既定路線であり、何も秀忠の独断に基づくものではなかったのです。

ただし、当時昌幸は信州で孤立無援の状況でしたから、大軍で上田城を囲めば降伏勧告に応じると、家康は思ったのかもしれません。

ところが、昌幸は秀忠の降伏勧告をはねつけ、秀忠軍は上田城攻略に失敗。

そこへ折しも届いたのが、家康からの至急上洛命令で、
秀忠にしてみれば、まさに踏んだり蹴ったりの状況に陥ってしまったのでした。


2010年06月22日

白鳥神社

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真田氏のルーツには諸説ありますが、
滋野三家(海野、望月、祢津)の盟主とされる
海野一族の流れである、というのが有力です。

白鳥神社(東御市本海野)はその海野一族の
氏神とされ、この辺りが海野氏の本拠地でした。

白鳥神社は真田氏からもあつく崇敬されました。

 

2010年06月17日

海野宿

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真田地域の取材を終えた後、
北国街道の宿場の一つ、
海野宿へと向かいました(現・東御市)。

海野(白鳥)宿の歴史は古く、
木曾義仲が挙兵したのはこの辺りといわれ、
「上田市誌」によれば、
戦国の武田時代には伝馬制によって
ここに宿郷(宿駅・宿場)が設けられていました。

小県では、他に和田・大門・長窪・丸子に
宿郷があったとされます。
(他にもあったかもしれません)

現在でも江戸時代の旅籠屋造りの建物が延延と続き、
時代物ファンにはたまらない場所と感じました。

真田氏本城跡⑦

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真田氏本城跡で、一点、重要な写真を載せ忘れていました。

写真は、城跡から今の松代(川中島)方向を遠くに望んだものです。
(雲でほとんど隠れてしまっていますが…)

真田地域から川中島に至るには、
今の上田に出て、千曲川沿いに北国街道を行くのが
一つの方法です。

しかしそれとは別に、上田には出ず、真田地域から
山間の道を進み、地蔵峠を越えて行く方法もありました。
(ほぼ今の長野県道35号線に沿うルート)

真田氏が上田を本拠地にするのは、昌幸が城を築いて
からなので、その前は、このルートで川中島方面の
情勢を探っていたのかもしれません。

2010年06月11日

信綱寺

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真田昌幸が兄信綱の
位牌所とした信綱寺です。

宝物館には長篠の戦いで戦死した
信綱の首級を包んで運んだという
血染めの陣羽織があるそうですが、
ご住職がご不在で見学はかなわず。

他日を期すことになりました。

山家神社

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四阿山を奥宮とし、
その里宮として神川流域一帯の
人々に崇敬されてきた山家神社です。

真田氏も厚く保護しました。

山家神社が勢力を誇ったのは、
四阿山、根子岳の裾野が
古代の牧として重要な位置を
占めていたからだそうです。

それはこの辺りが馬の生産地という
軍事的な拠点だったことを意味し、
また真田氏の祖先は
牧場を経営した武士だったのではないか、
との推測も成り立つそうです。

確かにこの辺りは、不思議と至るところに
小川が流れ、馬の放牧に適した草地に溢れている
印象がありました。

まさに山家神社は、真田一族の聖地にふさわしい
場所といえそうです。