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2006年09月27日

十万石の最中?

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写真家の方より、編集部にお土産で最中(もなか)をいただきました。
手に持つと、なんともずっしり重量感があります。
商品名を見ると、「上總大多喜城 最中十万石」とあります。
十万石とはこれまた豪勢な最中です。
「さて、大多喜城とは誰の城だったかな」
と思い、箱に入っていたしおりを見ると、家康四天王の一人、本多平八郎忠勝(十万石)によって、慶長14年(1609)に築城された平山城であるとのこと。
本多忠勝は、
「家康に過ぎたるものは、唐の頭と本多平八」
と謳われたことで有名ですね。


そして最中の表面には本多忠勝の「立ち葵」の紋所が。
しおりによれば、忠勝の紋所はもともと「三つ葉葵」であったものを、
家康の紋所「立ち葵」と交換したそうです。
(残念ながら、交換した理由は書いてありませんでした)


さて、お味の方ですが、ほどよい甘さのあんこがぎっしり詰まっていて、
「十万石」の名に恥じない濃厚なおいしさ。
「甘いものを食べた」という満足感を存分に与えてくれます。
夕飯をまだ食べていない編集部員にとって、この上ないエネルギー補給となりました。
あれ。でも、満たされたらちょっと眠気が……(横)

2006年09月25日

慶次清水を探して

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前田慶次郎の特集の取材で先日、慶次郎終焉の地といわれる米沢に行ってきました。
まず、慶次郎が「無苦庵」という小さな庵を結んだといわれる場所へ。
そこには堂森善光寺というお寺があり、慶次郎供養塔が立っています。


それから近くにあるという、慶次郎がその湧き水でお茶を点てたという
「慶次清水」を探しました。
しかし、なかなか場所がわからず、近くにいたおばあちゃんに尋ねることに。
「ああ、昔は漫画か何かで流行って、いっぱい人がきたねえ」
といいながらおばあちゃんが指差すのは、田んぼの向こうのこんもりとした林です。
田んぼの畦道を突っ切っていけばいいといわれたので、
私たち一行は、そちらを目指して歩き始めました。
しかし、言われる方向に進んだのですが、そちらには雑草が生い茂るばかりで、
どうも道らしきものはありません。
なおも畦道をうろうろしてみて、
「これは見つかりそうにないですね」
とあきらめかけて帰ろうと、振り返ったその時でした。
見ると、さっきのおばあちゃんが必死で畦道をこちらに駆けてくるではありませんか。
遠くから私たちの様子を見ていて、見かねて案内しにきてくれたのです。
「こっちに道があるはずだ」
といいながら、おばあちゃんは畦道を外れ、
胸くらいの高さまである雑草を踏み分けて、ぐんぐん林の方向へ進んでいきます。
私たちも追いかけるのですが、前日の雨で足場が悪いこともあり、なかなか追いつけません。
そうしてズボンを泥々にしながらも、必死でおばあちゃんについていった結果、
ようやく見つけたのが、写真の「慶次清水」です。
今でもきれいな水の湧き出す、静かないい場所でした。


今回の取材では、前田慶次郎の甲冑を所蔵されている宮坂考古館の館長さん、
慶次郎が作ったといわれるお面を所蔵されている方など、
地元の方々にたいへんお世話になりました。
「歴史街道」では地方取材も多く、いつもその土地の方々にご協力いただいて、
雑誌ができあがっています。
今度は、あなたの住む場所の近くに行くかもしれません。
もし道などを訪ねることがあったら、よろしくお願いします。(横)

2006年09月22日

原哲夫先生インタビュー!

11月号の総力特集で前田慶次郎をとりあげるのですが、
そのなかで、『花の慶次』を描かれた原哲夫先生にインタビューしてきました。
原先生といえば、私が少年時代に食い入るように読み、
そして毎週のアニメを楽しみにしていた『北斗の拳』の漫画家です。
まさか20年たって、お目にかかる機会があるとは思っていませんでした。


失礼な質問をしたら、「北斗百烈拳」かな、それとも秘孔を突かれるかな、
と、どきどきしながらいざご対面。
漫画のイメージと違って、ごくごく気さくな、親しみやすい方でした。
しかし、そのひと言ひと言に重みがあって、
まさに「漢」と書いて「おとこ」の風格を持ち合わせていました。
原作者の隆慶一郎先生との思い出、
「北斗の拳」「花の慶次」にかけた思い、
そして「花の慶次」の登場人物など、歴史上の人物の魅力など、
熱く語っていただきました。
「命をかける覚悟でやってこそ、何かを成し遂げられる。
僕も北斗の拳や花の慶次をそのくらいの覚悟で描いてきました」
「追い詰められたときに死を覚悟しなきゃと思うと切り抜けられる。
逃げようとか、助けてとか思うとだめなんですよ」
などなど、原先生ならではのお話をたくさんいただきました。
このインタビュー記事は、10月6日発売の11月号に掲載されます。
詳しくはぜひそちらをご覧下さい。(横)

2006年09月05日

10月号特集 高杉晋作

「これより長州男児の肝っ玉をお目にかけます」
元治元年(1864)12月、雪の長府・功山寺において、
高杉晋作は打倒萩政府の兵を挙げました。
従う者わずかに八十名……。


幕末、アジア諸国を蹂躙した西洋列強は、次に日本を狙っていました。
上海に渡航し、半植民地と化した中国を見て強烈な危機感を抱いた晋作は、
攘夷実行のために、身分を問わぬ精鋭部隊「奇兵隊」を結成します。
そして長州藩は攘夷を決行、下関を通過する外国船に砲撃を加えます。
しかし、四カ国連合艦隊の強烈な報復攻撃を受け、
さらに幕府の征討軍を前に、藩は屈服の道を選んだ。
「このままでは長州が、そして日本が滅ぶ」
晋作は奇兵隊に決起を促すが、肯んじる者はいませんでした。
「ならば一人でも起つ!」
晋作の、この捨て身の決断が、奇跡を起こしました。
彼に従う者は次第に増え、ついに晋作らが藩の実権を握るに至ったのです。
長州藩内の動きを察知した幕府は、再び長州征伐の軍を起こし、四境戦争が勃発。
兵の数では数十倍の幕府軍が相手でしたが、晋作らの奮闘でこれを撃退。
幕府の権威は地におち、明治維新に向けての大きな一歩を進めることができました。
それは高杉晋作の一つの決断 から始まったといっても過言ではないでしょう。


「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」と評された晋作。
破天荒で型破りながら、一片の私利私欲もなく、維新回天の事業に短い生涯を捧げた男。
彼の決断を中心に、時代を動かす男の姿を描いた特集です。(横)