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2007年02月27日

チンギス・ハーン、飲んべえを叱る!?

3月6日発売の歴史街道の総力特集は「東郷平八郎」ですが、
「蒼き狼はなぜ世界帝国を築けたのか」と題して
「チンギス・ハーン」の特集も組んでいます。
チンギスの人間性、モンゴル軍の戦術、チンギスを支えた名将たちに焦点を当てて、
その強さの秘密に迫ります。

ところで、そのチンギス・ハーンですが
飲酒について以下のように語っています。


「酔いつぶれた人間は、その才知も用をなさず、
善行美徳をなすことができない。物を壊し、人を殺めることもある。
いかなる人間も酒に溺れると理性を失ってしまう。
酒をやめられなければ、少なくとも1ヵ月に3回程度にすべき。
できれば、2回。1回ならさらに良い。
全く飲まないのが1番いいが、酒を飲まない人間が一体どこにいるだろうか」
(参考文献:白石典之『チンギス・カン』中公新書。
近年の発掘調査を交えた内容で非常に面白いです)


お酒好きには、耳の痛い言葉ですね・・・。
けれども最後の一文。話がわかる大将という感じがしませんか。
巨大帝国を築いただけに、恐ろしい人物を連想してしまいますが、
なかなか寛容な心を持っていたようです。
これもまた、強さの秘訣かもしれません。


でも、やっぱりチンギス・ハーンとお酒を飲むとなると恐いだろうなあ・・・(村)

2007年02月26日

東郷平八郎がいた。

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すべからく情報収集とはそういうものかもしれませんが、
体系的でなく、アトランダムに興味の赴くまま、企画の
材料を探すことになります。
そうした過程のなかで、何か直感ともヒラメキとも
思いつきとも違うような、自分の「思い込み」を軸に、
今度はそこから思い切り円を描いていき、
最後に無駄を省いてやっと一つの特集ができあがります。

3月6日発売の弊誌「歴史街道」4月号の総力特集は、
東郷平八郎です。

率直にいって戦後、東郷についてはその偉大な功績に反して、
あまり語られてこなかった人といえるでしょう。
これは晩年、艦隊派に担がれて日米戦争の原因をつくってしまったというイメージが
あるからかもしれませんね。
しかし、そこで思考停止せず、東郷の生涯を生まれから調べていくと、
そこにはかつて日本がイギリス、アメリカと並んで三大海軍国であった
時代の、まぎれもない一人の「英雄」がいました。
数えで17歳の時の初陣薩英戦争から、戊辰の役を戦い抜き、イギリスに
八年も留学して近代海軍について学び、日清戦争(豊島沖海戦、黄海海戦、
威海衛夜襲)、清仏戦争(軍艦「天城」に乗って現地を視察)、日露戦争
(旅順口閉塞作戦、黄海海戦、日本海海戦)でつねに艦橋にあって陣頭
指揮し、晩年も皇太子(昭和天皇)の教育に尽くした伝説の海将…。
そんな東郷は、たんに古今比類なき「勇将」であるとも、あるいは西洋近代の知識で
武装した「智将」であるとの当初の「思い込み」を気持ちよく粉砕してくれた、
将に将たる人物でした。まさに、東郷平八郎は東郷平八郎であったのです…。
どうぞ、お楽しみに。(永)

(写真:鹿児島 、多賀山公園 の東郷平八郎像、 撮影:田中五郎)

2007年02月23日

小栗忠順と東郷平八郎。

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日露戦争後の明治45年、
東郷平八郎は「日本海海戦に勝利できたのは、
小栗忠順(ただまさ)が横須賀に製鉄所、
造船所を建設してくれていたお陰じゃった」とし、
遺族を前にお礼を述べたそうです。

小栗忠順は大政奉還後も新政府軍への徹底抗戦を主張し、
恭順を申し出ていた徳川慶喜に疎んじられて
上野国(群馬県)で家族と静かな生活を送っていたところ、薩長軍にとらえられて
首を刎(は)ねられてしまったという悲劇的人物で、恭順派の勝海舟とよく比較されます。
小栗が建設を指揮した横須賀製鉄所は当時アジア最大級のもので、
後に明治新政府の海軍工廠となり、
ここから日本の近代化に尽くす多くの技師が育ちました。
近代化に邁進(まいしん)したのは、薩長だけでなく、
幕府もまたそうであったことは今日よく知られていますが、
小栗はその代表的人物といえます。それだけに、
明治新政府には都合の悪い人だったのかもしれません…。
明治も40年がすぎてから、小栗の名誉は回復され、
遺族は感泣したそうです。(永)
※ご指摘を受けて、誤った箇所は削除しました。
(写真:東郷胸像、撮影:米里耕治、東郷記念館にて)

2007年02月19日

東郷平八郎、アメリカでのお話。

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明治44年(1911)、東郷平八郎はジョージ5世の国王戴冠式のため、
乃木希典とともに33年ぶりに渡英しました。
(東郷は数えで25歳から32歳まで8年ものあいだ、イギリスに留学していました)

写真はその帰り、アメリカに立ち寄り、ニューヨークのホテルに宿泊した際の
歓迎晩さん会のメニューです(撮影:米里耕治、実物は東郷記念館で見ることができます)。
米国国旗と日章旗にはさまれた円に描かれているのは、戦艦「三笠」でしょう。
国賓として東郷は「世界のトーゴー、われらのトーゴー」として、
ニューヨーク市民の大歓迎を受けました。

米国で東郷は日露講和に力添えしてくれた前大統領・セオドア・ルーズベルトの家を訪れ、
日本より持参した武者人形をお土産としてプレゼント。
さらに明治天皇よりルーズベルトに講和の御礼として贈られた日本刀が
手入れされていないのをみるや、自ら手入れをしてあげたといいます。

ルーズベルトが感激したこと、いうまでもありません。
日本海海戦でバルチック艦隊に劇的な勝利をとげた6年後のことでした。

3月6日の発売に向けまして、
本ブログではいくつか誌面では紹介しきれない
東郷のエピソードを取り上げていきたいと思っています。(永)

2007年02月15日

私にもいわせて…関ケ原!

編集部に異動して間もない昨年二月ごろ。初めて関ケ原にいってきました。

そこで私が驚いたのは、布陣は東軍に比べ、西軍が圧倒的に有利であること。
石田三成が布陣した笹尾山からは関ケ原が一望できますし、
一方で徳川家康が布陣した桃配山は周囲を西軍に囲まれ、
なんでこんな危ないところに…との思いを強くしました。

明治期にドイツより招かれたメッケルは、
関ケ原の東西両軍の布陣図をみて即、
「西軍勝利」といったそうですが、現地にいけば素人でもそう判断できます。

さらに驚いたのは、小早川秀秋が布陣した松尾山についてです。
去就の定まらぬ秀秋を脅すため、家康は松尾山に鉄砲を撃ちかけさせたと
いいますが、松尾山は麓から山頂まで歩いて40分ぐらいあり、
実際に効果的だったかといえば、そうとう疑問です。

これまで私が小説や漫画で得たイメージでは、
野戦得意の家康が三成を関ケ原に引きずりだし、
またさすが、なるほどと信じていたのですが、
現地を訪れてみると、そもそも、関ケ原は大軍が自由に動けるほど広くなく、
真実は逆だったのではないかと思った次第です。

少なくとも、家康は自ら好んでこの地にやってきたのではない…

確かに、家康は西軍の中の一部の将に寝返りを仕掛けていました。
しかし、合戦当日まで実際はどうなるかわからず、あまりに不確実性
が高すぎて、逆に慎重な家康らしくありません。

なんとなく時の勢いというものが、三成と家康を関ケ原に呼び寄せたの
かもしれません。

みなさまはどう思われますか。 (永)

2007年02月08日

関ケ原人気武将ランキング

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「歴史街道」3月号の大谷吉継特集。
おかげさまで、なかなか好評のようです。ありがとうございます。


さて「歴史街道」では、2000年の4月号で「関ケ原」の特集を組んだ時、
「あなたが好きな関ケ原の武将は誰?」
というアンケートをネット上で実施しました。
そのランキングで栄えある1位に輝いたのは……。


もちろん、我らが大谷吉継でした。
7年前のことで、その号をお持ちの方も少ないかと存じますので、以下、ベスト10の武将たちを紹介していきます。


1位 大谷吉継(西軍)
2位 石田三成(西軍)
3位 徳川家康(東軍)
4位 島津義弘(西軍)
5位 島左近(西軍)
6位 真田幸村(西軍)
7位 本多忠勝(東軍)
8位 藤堂高虎(東軍)
9位 福島正則(東軍)
10位 井伊直政(東軍)


戦いでは負けた西軍が、人気では圧勝しているのが面白いですね。
大谷吉継については、ある女性からこんなコメントが。
「義理堅く、静かなイメージがあります。病身であったことで、人に対する思いやりの気持ちが持てたのかもしれません。負けを覚悟しながら、友である石田三成と関ケ原に臨む姿は、戦国時代の中で自分の利を抜きにした、男らしい武将の一人だと思います」
まさに吉継の魅力を的確に表わしているコメントですね。
また、2位の石田三成については、ある男性のこんな意見が。
「落ち目の豊臣家を最後まで守り抜こうとした点。それと、会社における立場が私と似ている為」
いったいどんな立場なんだろうと想像してしまいますが、
この男性には、味方についてくれる吉継はいたのでしょうか?


みなさんは関ケ原でどの武将がお好きですか?(横)

2007年02月05日

「歴史街道」3月号総力特集・大谷吉継、6日発売

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「歴史街道」3月号は明日6日発売予定です。
総力特集は予告しています通り「大谷吉継」。


秀吉の小姓からスタートした彼は、親友の石田三成の推挙もあり、賤ケ岳の戦いや朝鮮出兵などで功績を重ね、着々と昇進していきます。
しかし、そんな吉継を病魔(ハンセン病といわれています)が蝕み、
もはや目も見えなくなり、一線を退かざるを得なくなります。
そして秀吉が死去、時代の流れが風雲急を告げます。
天下分け目・関ケ原合戦の勃発です。


吉継はもともと、家康の会津征伐に従軍するべく敦賀を出て大垣まで来たところ、
三成から佐和山に呼ばれ、家康を討つと相談を受けます。
前もって打ち明けられていなかった彼は、「こんな大事なことをなぜ今頃」と思います。
家康の実力を知り尽くしている吉継にすれば、三成がかなう相手とは到底思えません。
三成の居城・佐和山城で色々説得を試みたものの、無駄でした。
やむなく三成との訣別を覚悟する吉継。
しかし吉継の脳裏に、かつて秀吉の前で諸将が居並んで茶を回し飲みした時に、
三成に窮地を救われたある記憶が甦り……。


関ケ原の合戦では、様々な立場の人間が、
様々な目的や思惑を持って戦いに参加しました。
しかし、その判断基準はあくまでも「利益」や「保身」といった、
自分の利害がほとんどでした。
その中でたった一人、吉継は「友情」を決断の基準としました。
それは、身内や家臣たちをも犠牲にしなければならない苦渋の選択でしたが、
それでもなお、人として大事なものに殉じる覚悟を決めたのです。
吉継を通じて、人が生きる上で最も大切なものは何であるのかを描いていきます。
なお、誌面では諏訪原寛幸氏に大谷吉継のイラストを描き下ろしていただいています。
吉継のイメージ通りかつ迫力たっぷりのイラストですので、
ぜひご覧下さいませ(横)

2007年02月02日

再び、東郷神社を訪ねて

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神社内の回廊に展示されている東郷元帥の生涯を追った「絵」の撮影をするため(もちろん、許可が必要です)、再び東郷神社内にいってきました。東郷神社を訪ねるのはこれで二回目になりますが、なぜかここに来ると「落ち着く」自分を発見したりしています。同行のデザイナー氏も、この静謐な空間に「ほお」と声をもらしていました。ひととおり、撮影が終わり、東郷元帥にお礼をいって帰ろうとしたとき、東郷神社の禰宜の方が、「がんばってください」とお守りをくれました。その名も、百発百中守。いうまでもなく、「連合艦隊解散の辞」で有名な「百発百中の一砲よく百発一中の砲に対抗し得る」からきているのでしょう。そういえば受験シーズンのためか、「合格祈願」の絵馬をたくさん目にしました。試験で「百発百中」するためには、当日に向けて準備万端整えなければいけません。受験生は気持ちを引き締める意味で、東郷神社に絵馬をおさめているのでしょう。かつて受験生だった当時の自分を思い出して、神社をあとにしました。(永)

2007年02月01日

大谷吉継と白虎隊の意外な関係

ええ、歴史街道2月号でも採り上げた、あの幕末の会津の白虎隊です。
なんと飯盛山で自決した白虎士中二番隊19名の一人が、
「歴史街道」3月号で特集する大谷吉継の子孫だったというのです。
その隊士の名は津田捨蔵。


ある日、捨蔵は父から、津田家に伝わる家宝の鎧こそ、
大谷吉隆公(吉継のこと)のものだと教えられます。
父は、吉継が負ける戦とはわかっていても、
三成との交誼を捨てるのは人の道ではないと、
病で目が見えぬ体でありながらも、三成とともに戦ったこと、
そして関ケ原の戦いでいよいよ敗色濃厚となってから、
友人である平塚為広と交わした辞世の句を伝えました。


為広 君の為捨つる命は惜しからじ 終に留まらぬ浮世と思えば
吉継返歌 契りあれば六つの衢(ちまた)に待てしばし 後れ先立つことはありとも


さらに父は、その歌を詠んだ後、吉継が戦場で自害して果てたことを語り、
そのような人物の遺物であるからこそ、先祖から今に至るまで、
大切に所蔵してきたのだ、と語ります。
その話を聞いた捨蔵は、感じ入るものがあったのでしょう。
その古い鎧を着用するや刀を抜き放ち、
三度躍り上がって、敵の首を斬る真似をしたそうです。


津田家が吉継の子孫だったとしても、どの系譜の子孫かはわかりません。
しかし、吉継の娘が真田幸村に嫁ぎ、
その間の娘(吉継の孫)が、大阪の陣の跡、
仙台伊達家の家臣の妻となっていることから、
東北の地に吉継の血統が残されたことはたしかなようです。
いずれにせよ、飯盛山で壮絶な自決を遂げた白虎隊士と、
関ケ原の西軍の名だたる武将の中で、唯一戦場で覚悟の自決をした吉継との間に、
270年もの時を超えて繋がりがあったということには、
何だか感慨深いものがありました。(横)