大谷吉継と白虎隊の意外な関係
ええ、歴史街道2月号でも採り上げた、あの幕末の会津の白虎隊です。
なんと飯盛山で自決した白虎士中二番隊19名の一人が、
「歴史街道」3月号で特集する大谷吉継の子孫だったというのです。
その隊士の名は津田捨蔵。
ある日、捨蔵は父から、津田家に伝わる家宝の鎧こそ、
大谷吉隆公(吉継のこと)のものだと教えられます。
父は、吉継が負ける戦とはわかっていても、
三成との交誼を捨てるのは人の道ではないと、
病で目が見えぬ体でありながらも、三成とともに戦ったこと、
そして関ケ原の戦いでいよいよ敗色濃厚となってから、
友人である平塚為広と交わした辞世の句を伝えました。
為広 君の為捨つる命は惜しからじ 終に留まらぬ浮世と思えば
吉継返歌 契りあれば六つの衢(ちまた)に待てしばし 後れ先立つことはありとも
さらに父は、その歌を詠んだ後、吉継が戦場で自害して果てたことを語り、
そのような人物の遺物であるからこそ、先祖から今に至るまで、
大切に所蔵してきたのだ、と語ります。
その話を聞いた捨蔵は、感じ入るものがあったのでしょう。
その古い鎧を着用するや刀を抜き放ち、
三度躍り上がって、敵の首を斬る真似をしたそうです。
津田家が吉継の子孫だったとしても、どの系譜の子孫かはわかりません。
しかし、吉継の娘が真田幸村に嫁ぎ、
その間の娘(吉継の孫)が、大阪の陣の跡、
仙台伊達家の家臣の妻となっていることから、
東北の地に吉継の血統が残されたことはたしかなようです。
いずれにせよ、飯盛山で壮絶な自決を遂げた白虎隊士と、
関ケ原の西軍の名だたる武将の中で、唯一戦場で覚悟の自決をした吉継との間に、
270年もの時を超えて繋がりがあったということには、
何だか感慨深いものがありました。(横)
コメント
父から昔よくきかされました。先祖は大谷刑部義隆であると。癩病であったということで詳しくは承知していませんが、系図を見せてもらったことことがあります。津田捨蔵のことについても詳しくは承知していませんが、墓前に線香を手向けたこともあります。ただし、家紋をみると当家は三亀甲であるのに、釘抜きの一甲であることにつてはいかなることなのか不明ではあります。
投稿者: 津田等 | 2010年09月09日 21:08
父から昔よくきかされました。先祖は大谷刑部義隆であると。癩病であったということで詳しくは承知していませんが、系図を見せてもらったことことがあります。津田捨蔵のことについても詳しくは承知していませんが、墓前に線香を手向けたこともあります。ただし、家紋をみると当家は三亀甲であるのに、釘抜きの一甲であることにつてはいかなることなのか不明ではあります。
投稿者: 津田等 | 2010年09月09日 21:09
実家の津田の父から、津田というのは関ヶ原後、大谷の子孫を抱いて逃げた乳母の姓だと聞きましたが・・
どうなのでしょう?
投稿者: 原 純子 | 2011年02月06日 20:02