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2007年04月26日

2009年大河ドラマ決定!

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来年の大河ドラマは「篤姫」ですが、
再来年、2009年の大河ドラマのテーマが本日発表されました。
タイトルは「天地人」。
主人公は、直江兼続、です。
これは「歴史街道」にもよくご執筆いただいている火坂雅志先生の「天地人」が原作となっています。
脚本は、現在放送中の連続テレビ小説「どんど晴れ」の脚本を手掛ける小松江里子さん。


上杉景勝の家臣でありながら、
天下人・豊臣秀吉、徳川家康らを魅了し、最も恐れられた男、
その名は、直江兼続
上杉謙信を師と仰ぎ、兜に「愛」の文字を掲げた兼続は、
その波乱の生涯を通じて「民・義・故郷」への愛を貫く!!
失われつつある「日本人の品格」がここにある!
(NHK制作発表資料より)


直江兼続は「歴史街道」でも以前採り上げていますが、
たいへん評判がよかったのを覚えています。
それ以来、島左近や前田慶次郎、大谷吉継といった、
いわゆる「義将」たちを歴史街道で特集するきっかけとなった号です。
誰もが「利」を追いかけた戦国乱世において、
たとえ損をしても「義」を貫いた男たちが、いま注目されつつあるように思えます。
勝つためなら、儲けるためなら「何でもあり」というのではなく、
まさに直江兼続のような男たちこそが、本来の「日本人のありかた」を
体現しているからではないでしょうか。
「天地人」楽しみです。(横)

2007年04月23日

「歴史街道」真珠湾編⑦

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メモリアルの奥には、戦死した1,100名の将兵の名を刻んだ大きな大理石がありました。
この慰霊碑をみて、中年の白人女性が「あっ」という感じで口に手をあてて、
今にも泣きそうな顔になりました。
その女性に限らず、
その慰霊碑の前にたった白人は皆無言で哀悼の意を捧げているようであり、
日本人の私はさすがに居たたまれなくなって、すぐにその場を後にしました。
困ったのは帰りのボートの際、座る場所がなかったこと。
周りはほとんど白人であり、周りの冷たい視線を感じました(思い過ごしかもしれません)。
幸い、日系のガイド氏の隣の席が空いていたので、そこに座りました。
私は、彼が何か話しかけてくれるのを期待したのですが、
彼はそれを静止しているようでした。
帰りのバスでその日系ガイド氏は、
欧州戦線における日系人部隊の奮闘振りを解説していました。
それぞれの生き方によって、受けつくべき、また語るべき物語は違うのです。
<つづく…>(永)

2007年04月20日

「歴史街道」真珠湾編⑥

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写真中央、海面に浮かんだ「しみ」が確認できますでしょうか。
じつはこれ、
アリゾナから今も染み出ている重油なのです。
沈没から60余年経ったいまでも、
アリゾナからはこうして
毎日重油が出ているのですね。
アリゾナ記念館に向かうバスのなかで日系ガイド氏がそう
いったときは、みんな「ほんとなのー」という感じでしたが、
実際それを目にすると、一様に悲痛な顔をしていました。
まさにアリゾナ・メモリアルは物言わぬ歴史の「証人」として
その存在が捉えられているのだということが、
私もはっきりわかりました。
また、その重油の周りを魚が何事もないように泳いでいた。
ハワイの海はきれいなのです。
ちなみに写真左上に見えるのは、慰霊のために捧げられた花束です。
「バサッ」と音がしたので私も我に返ったのですが、それは花束が
水面に落ちる音だったのです。
静けさの中で、それだけが辺りにこだまし、しばらくの間、その花束から
目を離すことができませんでした。
<つづく…>(永)

2007年04月16日

「歴史街道」真珠湾編⑤

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こうして、アリゾナ・メモリアルにやってきました。

ところで、写真が何かわかりますでしょうか。

これは、沈んだ戦艦アリゾナの上に浮き桟橋のようにたっているメモリアルの中央からみた彼女(※船は女性名詞)の第三砲塔の残骸です。近くでみると非常に大きく、またその錆び付き具合が時の流れを感じさせて、なんとも痛ましい気分にさせます。

ちなみに、当時、真珠湾には、「カリフォルニア」「メリーランド」「テネシー」「ウエスト・ヴァージニア」「ペンシルヴェニア」「ネヴァダ」、そして「アリゾナ」「オクラホマ」の合計八隻の戦艦が停泊していましたが、このうち完全に撃沈されたのは「アリゾナ」「オクラホマ」のみで、他の戦艦は大破着底したものでも、真珠湾は水深が浅いため、すべて引き上げられて修理、改装を施され、戦線に復帰しています。

いずれにせよ、その多くは1920年頃前に竣工された「旧型」戦艦であり、日本の「大和」級に匹敵する「新型」戦艦はなかったことは注意すべきです(もっとも、日本にもこのとき新型戦艦と呼べるものは「大和」しかありませんでしたが※41年12月16日竣工)。

それだけに、空母がいなかったことは、日本海軍にとってなんとも惜しかったわけですが、これはいっても仕方がないことでしょう。<つづく…>(永)

「歴史街道」真珠湾編④

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(写真:アリゾナ・メモリアル、建物の中央は下にたわんでいるのに、両端はしっかり支えられている形となっているのは、最初の負けにもかかわらず、最後には必ず勝利をもたらすという意味がある)


記録映画開始前になったので、あらためて順番待ちの列に並びます。
ちなみに、整理券をよく見ると、「リメンバー・パールハーバー」の文字とともに、
戦艦「アリゾナ」とともに沈んだ「オクラホマ」の水兵の顔写真がプリントされていました。整理券一枚一枚に、戦死した違う兵士の顔が印刷されているのでしょうか。
戦後、60余年がすぎてもなお、「リメンバー・パールハーバー」という言葉がこのようなかたちで刻みこまれていることに、私は率直にいって驚きました。
映画は日米開戦の経緯から、山本五十六が真珠湾攻撃を決めた理由が手短にまとめられ、
なかなか見応えがあります。
ところで、真珠湾攻撃といえば、それを知っていてわざと現地の司令官に連絡しなかったという、ルーズベルトの陰謀説が古くからささやかれています。むろん、その真偽は私などには確かめようもありませんが、興味のあるところではあります。
そこで映画を注意してみていると、真珠湾攻撃が完全な奇襲になってしまったのは、レーダーがいち早く日本軍機の編隊を察知していたにもかかわらず、ちょうどその頃、B-17の編隊が来るニュースが伝わっていたことが災いして、それと誤認してしまったという「合理的な」説明がなされていました(もし、仮にそのレーダー情報に基づいて警戒態勢をとっていれば、攻撃を受ける前に「50分」の余裕があったことになります)。
しかし、私が改めて感じたのは、最初からアメリカ軍がレーダーを駆使する戦いをしようとしていた、ということでした。
開戦当初から、日本の外務省の暗号が破られていたのは、今では高校生でも知っている歴史的事実ですが、この広く「情報」に関する取り組み方の違いこそ、ミッドウェー海戦をはじめ、日本海軍が一連の海戦でアメリカ軍に敗れつづけた原因でありました。これは余談(※最近の研究では、日本もまた米英中の外交暗号を一部解読していたようですが)。
ともかく、映画が終わり、いよいよボートに乗ってアリゾナ・メモリアルに向かいます。
そこにつくまで3、4分といったところでしょうか。この狭い幅をかけぬけて、日本軍機は爆撃、雷撃したのかと思うと、たしかにそれは神業といえる範疇にあった、などと余計なことを考えていると、あっという間にそれが近づいてきました。<つづく…>(永)

2007年04月06日

5月号総力特集「軍師・竹中半兵衛」本日発売

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本日、歴史街道5月号が発売となります。
総力特集は「軍師・竹中半兵衛」。
木下藤吉郎と呼ばれていた頃の秀吉に仕え始め、秀吉軍団を戦国屈指の軍団へと育て上げた天才的手腕。
彼がいなければ秀吉の天下はなかったであろうと評される軍師こそ、竹中半兵衛です。
半兵衛の武功を世に知らしめたのは、永禄7年(1564)の稲葉山城乗っ取りです。
美濃国斎藤氏に仕えていた半兵衛は、「主人龍興の傍若無人を諌める」と称し、
わずか十六人の家臣で稲葉山城を占領しました。
この時、彼はまだ二十歳前後であったといいます。
名軍師と評判高い半兵衛ですが、
彼の采配に血わき肉踊るふうの劇的なものはありません。
半兵衛の武器は信義を重んじた誠実さでした。
その軍略の基本は調略であり、いたずらに血を流すことなく、
誠心誠意、理と情をもって説得し、おさまりどころをつくる。
いかにして敵味方の消耗少なく戦をするか、というのが半兵衛の考えの根本だったのです。
それは信長の殲滅主義への強烈なアンチテーゼでもありました。
名利を求めず、ただ天賦の軍略の才を縦横に駆使することを求め、
秀吉を勝利に導いた男、竹中半兵衛。
三十半ばで夭折した名軍師の生涯を通し、
誠心誠意、己のなすことを尽くすことで信頼を勝ち取る生き方の
強さと魅力を描いた特集です。

2007年04月04日

「歴史街道」真珠湾編③

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(写真:左の戦艦がミズリー、右の白亜の建物がアリゾナ・メモリアル)


そこであわててセンター内をかけまわり、何か見落としたものはないかを確認したのですが、吹き抜けになっているセンターの外には真珠湾を一望できる庭があり、外に出ました。


対岸のフォード島越しには戦艦ミズリーとアリゾナ・メモリアルが並んでみえ、もちろんカメラのシャッターを押しました。

そうなんですね、戦艦アリゾナの上に建つアリゾナ・メモリアルはボードで渡ることになっているのです。それにしても、戦艦ミズリーは日本全権が降伏文書に調印したところ。

それと、太平洋戦争開始の象徴となった戦艦アリゾナのメモリアルが並んでいる様子は、やはり何かアメリカの「意志」みたいなものを感じないわけにはいきませんでした…。

<つづく…>(永)

「歴史街道」真珠湾編②

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センターへの入り口では、でっかい戦艦アリゾナのいかりが我々を迎えてくれました。
(なお、アリゾナ記念館への入館料は無料ですが、館内には募金箱が置かれていました)

入館すると、映画を観る順番待ちのチケットが渡されます。

なお、映画の音声と館内の資料の説明用に、ヘッドホン付きの各国版の通訳フォンが
貸し出されており、$5でした。

受験英語に見事に適応し(?)、ヒアリング能力ゼロの私は、迷わず借りることを決定!

その待ち時間に、館内にある資料室や書店を見学することにしました。書店では真珠湾攻撃時のカラー写真が載った本はないか、必死で探したのですが、着色したもの以外は目ぼしいものは見つかりませんでした(当時のものはないのかもしれません??)。

また、書店では太平洋戦争を扱った10時間もののDVDが発売されており、$70前後だったので意外と安い! と思い、購入を考えたのですが、日本語版が売っていなかったので、断念するにいたりました…(よく探せばあったのかもしれません。書籍については日本語版が発売されています。小冊子を一冊購入)。

そんなこんなであっという間に時間がすぎ、映画開始時間までわずかとなりました。

〈つづく…〉 (永)

「歴史街道」真珠湾編①

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きわめて私的なことに属することながら、新婚旅行で一週間休みをとり、ハワイにいってきました(編集部のみなさま、ご迷惑をおかけしました…)。

奮発してシェラトン・モアナ・サーフライダーに泊まりましたが、部屋のテラスから眺めるダイヤモンドヘッドと海の光景はなかなか綺麗で仕事の疲れも忘れました(全部ではないですけれど)。

それはともかく、この旅行ではかねてより念願のアリゾナ記念館とそのメモリルアルにいってきました。真珠湾のフォード島周辺には太平洋航空博物館、戦艦ミズリー、ボーフィン潜水艦博物館、そしてアリゾナ記念館と、太平洋戦争の兵器や資料が展示されている場所がなんと4つもあるのです。

そのうち、今回の旅では、アリゾナ記念館とボーフィン潜水艦博物館にいくことにしました。

まず、アリゾナ記念館について。

昭和16(1941)年12月7日(日本時間8日)早朝、南雲忠一ひきいる帝国海軍の機動部隊は、真珠湾を奇襲攻撃しました。

日本の攻撃機が放った爆弾により、戦艦アリゾナは大勢の乗組員とともに真珠湾に轟沈します。

アリゾナ・メモリアルは、その沈む戦艦アリゾナの上を横切るように建てられた慰霊廟であり、発起人の一人は、あのプレスリーと旅行ガイドには書いてありました。

某旅行代理店にアリゾナ記念館とすぐそばのボーフィン潜水艦博物館をめぐるツアーがあったので利用しようと思ったのですが、集合時間が朝7時と旅行者には早すぎる時間…。

ならば一人で行こうと、それとなく行き方を訪ねてみたのですが、担当者に「日本人はほとんどいませんよ」といわれて急に心細くなり…、やはりツアーに頼ることにしました(お代は$52)。

日系のガイド氏によれば、ハワイを訪れた米国人のうち100人中95人がアリゾナ記念館にいくそうですが、日本人観光客の場合は100人中3人しかいかないとのことです。

ちなみに警備は厳しく、財布やカメラ以外の手荷物は持ち込み禁止(もし持参してきてしまった人は、近くの預かり所に預かってもらうことになります〔有料〕)。


集合場所のワイキキのホテルからアリゾナ記念館までバスで30分ぐらいであり、アリゾナ記念館についたのは朝の7時30分だったのですが、すでに長蛇の列が…。

じつは、アリソナ記念館にいくには、まずセンター内の劇場で必ずドキュメンタリー映画を観ることが課されているのですが、これがその整理券をもらうための列だったのです。

ちなみにガイド氏の説明によれば、映画まで最長3時間近く待ったこともあるとか。「そんなこと聞いてないよー」と思いつつも、静かに列に並んだのですがその日はすいていたらしく、映画の上映時間まで1時間あまりですむことになりました。

ちなみに、時間が早いこともあったでしょうが、日本人は我々ツアー客以外に見当たりませんでした。<つづく…> (永)