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2007年10月05日

「歴史街道」11月号発売!

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「歴史街道」11月号は、明日(10月6日発売)でございます。

総力特集は、予告しておりますとおり、「真田幸村と後藤又兵衛」です。

舞台はもちろん、大坂の陣。

大坂の陣は、上杉と武田が戦った川中島の戦いや、
三成と家康が戦った関ケ原合戦のように、
最後までどちらが勝つか分からない、
ハラハラするようなものでは、なかったかもしれません。

大坂の陣は、家康ひきいる関東勢の勝利は
初めから見えていた戦いであり、
万に一つも豊臣方に勝ち目はありませんでした。

しかし、その家康が最終局面で死を
覚悟するまで追い詰められるのです。

大坂の陣は戦国最後の戦いといえますが、
そのすさまじさがわかります。

もちろんそれは、真田幸村、後藤又兵衛という
当代最強の軍略家が豊臣方にいたからです。


ちなみに余談ですが、江戸幕府が除封削封した大名は
軽く200以上だと思われますが、ただの一大名も、武力で
もって抵抗したものはありません。

唯一、大坂の陣だけです。

戦国武士の魂が最後の、そして最高の輝きをみせたとき──

二人の活躍を楽しみに読んで頂けたら幸いです。

(永)

2007年10月04日

「歴史街道」真珠湾編、再開。

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すっかり、更新が滞ってしまいましたが、「真珠湾編」の続編を
いくつか書き連ねていこうと思っています。

写真は、ハワイ・真珠湾に太平洋戦争当時の姿で保存されている
ガトー級潜水艦「ボーフィン」の、そのトイレです。

おそらく、アメリカ人の体格は当時の日本人のよりも、
ワンサイズかツーサイズ、上であったと思われますが、
トイレは非常に小さく、お尻が入るのかなと心配してしまうほどでした。

潜水艦乗りとは、本当に過酷です。

しかし、いちおう個室で区切られており、もちろん!?洋式でした。

なぜ、この写真を思い出したかといいますと、
現在、故あって零戦のエース・坂井三郎氏の著作を読み進めているのですが、
そこで坂井氏が、二・三等兵用と下士官用、准士官以二・三等兵用上用で、
トイレに「格差」があったことを憤慨していたからです。

日本海軍の軍艦のトイレでは、二・三等兵用には隔壁はなく、
一等兵用になると隣との壁こそあるもののの、
前扉はなく、准士官用になってはじめて隔壁、前扉付きの普通の洋式便所となったようです。


さて、写真のトイレには「前扉」がありませんが、これは展示用にそうしたのか、
もともとそうなっているのか、日系ガイド氏に聞きそびれてしまいましたが、
おそらく、後者だと思われます。
また、トイレ以外にも、シャワー室もあったようで、
居住性には気をつかっていたようです。

いずれにせよ、アメリカ海軍は、人間共通の“生理現象”において、階級により
著しい差別をもうけることなどなかったようで、これは食事面の待遇などにおいても
同じだったと、坂井三郎氏の著作には書いてありました。
軍隊の民主制という点で、考えさせられるテーマといえるでしょう。
<つづく…>(永)

2007年10月02日

大坂の陣の史跡・高塚地蔵

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10月6日発売の「歴史街道・11月号」の
総力特集「真田幸村と後藤又兵衛」にあわせて、
今回は大阪周辺の大坂の陣関連の史跡をいくつか
探訪してきました。

大坂城からは距離がある史跡も多く、
超がつく方向音痴の私は、「聞き込み」を駆使して
やっと現地に辿り着く事もしばしば。

「高塚地蔵」もどうしても見つからず、何度か
「聞き込み」を繰り返して発見することができました。
(八尾市泉1丁目。行かれる方は、八尾北高校を目印にされるといいと思います)


このお地蔵さんの伝承は、
夏の陣の八尾の戦いで、長宗我部盛親隊の先鋒・吉田内匠が
藤堂高虎隊の家臣・藤堂民部と戦った場所というものです。
吉田内匠はこの地蔵堂の陰から槍をもって飛び出し、
吉田内匠を襲ったが、返り討ちにされたといいます。

お地蔵さんは、磨耗が激しく、周りを塀で完全に
囲われてました。
(うっすらと顔が浮き出ているのですが、写真でわかりますでしょうか)


写真を撮影したのはすでに日が落ちる間際で、
あたりは暗く、お地蔵さんの陰に本当に誰かが潜んでいそうで、
思わずシャッターを押す手が震えてしまいました。

同時に、400年前の大坂の陣にまつわる伝承が、
こうして史跡として街に溶け込み、
かつ大切に保存されているところに
歴史の奥深さを感じた次第です。(永)