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2009年09月30日

「忠魂不滅」! 一領具足たちの魂を鎮める

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元親銅像の見学を終えた後、前日と同様、再び浦戸城跡を目指しました。
途中、海岸沿いに建つのが石丸神社です。
関ケ原合戦後、西軍に参加した
長宗我部盛親は土佐一国を召し上げられ、
居城の浦戸城を明け渡すように申しつけられます。
しかし、一領具足たちは「せめて土佐の一郡でも残してほしい」と、
浦戸城に立てこもったのでした。
世にいう浦戸一揆です。
石丸神社は、戦いに敗れた一領具足たち273人の魂を鎮めようとして
建てられた神社で、六体地蔵や一領具足の碑(いしぶみ)、
土井晩翠(どいばんすい)の詩碑(写真です)がありました。
土井晩翠は、滝廉太郎の作曲で有名な「荒城の月」などで知られる詩人です。
詩碑の「忠魂不滅」の4文字がしばし心から離れず、この地を離れがたくさせました。
つづく…。(永)

2009年09月29日

元親初陣の像

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若宮八幡宮から海側に少し歩くと、
勇壮な長宗我部元親初陣の像が
建っておりました。
平成11年(1999)5月、元親没後400年を記念して建立されたものだそうです。

永禄3年(1560)、元親は初陣の際、若宮八幡宮社頭のこの地に
陣を張り、必勝を祈願したのでした。

時に、元親22歳。祖父兼序(かねつぐ)のカタキでもある宿敵本山氏との
戦いで、敵兵2人を槍で突き伏せるなど、初陣らしからぬ見事な働きをした
といいます。

この戦い後、時を経ずして父国親が亡くなるのですが、大きな混乱もなく
元親が軍を掌握できたのは、この初陣の際の働きで、カリスマ性を高めて
いたからかもしれない。そんなことを考えました。
さて、銅像広場には、“元親公への想い綴りノート”があり、参考までに
閲覧させていただくと…全国各県から訪れていることに、改めて驚かされました。
やはり「戦国BASARA」の影響が強いようです。
かくいう私も、ノートに次のようにメモを残させていただきました。
「9月X日 歴史街道編集部来る。10月6日、総力特集・長宗我部元親と盛親発売!」
これではまるっきり宣伝ですが、誰か見てくれた人はいるかな…。つづく…。(永) 

2009年09月28日

若宮八幡宮にて

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雪蹊寺周辺の散策が終わった後は、若宮八幡宮へ向かいました。

永禄3年(1560)、長宗我部元親が初陣以来、崇敬し続けた神社ですが、
こんな逸話も伝わっています。

天正14年(1568)、島津攻めで長宗我部軍が豊後へ出陣した際、
旗の笠標が鳥居の冠木(かぶき)あたりにぶつかり、千切れてしまいました。
元親は凶兆だとして、これを気遣ったのですが、戸次川の戦いで、
嫡男信親を失ってしまうのです。
その後、鳥居は海中に投げ捨てられたといいます。
元親の心の痛みが伝わってきそうな逸話です…。
現在、参道には、七鳩酢草(かたばみ)の旗が風にたなびいており、
長宗我部ゆかりの神社であることを思いました。つづく…(永)

2009年09月25日

天誅組に加わった長宗我部一族の子孫

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また、雪蹊寺の西には、国事で亡くなった方を弔う
忠魂墓地があり、その中でもひと際目立っていたのが、
島義親の墓碑でした。
義親は長宗我部四郎ともいい、脱藩後は
浪間(なみま)と称しました。
遠祖は長宗我部氏の一族に連なるそうです
(それ以上、詳しいことはわかりません)。
義親は、文久3年(1863)、藩命で上京。
三条実美の衛士となり、脱藩後、
天誅組の大和挙兵に参加しましたが敗れ、
同志と中山忠光を擁して長州の三田尻に逃れ、忠勇隊に入りました。
元治元年(1864)の禁門の変では、その忠勇隊に属して戦ったそうです。

その後、諸藩への遊説を計画して、山陰道に入り、再び京を目指した
ところ、美作国土居で賊と誤解され、同志と刺し違えて死んだそうです。
坂本龍馬もその死を惜しんだとか。
立派な墓碑に島義親に対する土佐人の追慕の念を思いました。つづく…。(永)

参考:「明治維新人名辞典」(吉川弘文館)他

2009年09月24日

元親の菩提寺・雪蹊寺にて

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土佐取材2日目の最初に訪れた場所は、雪蹊寺(せっけいじ)です。
長宗我部元親の菩提寺であり、嫡男・信墓の墓所も
この寺にあります。

天正14年(1586)、島津攻めの際、戸次川の戦いで戦死した
信親の最期は、悲劇的なものでした。
功をはやる秀吉の軍監・仙石権兵衛秀久は、島津の大軍を相手に
無謀な渡河作戦を敢行し、惨敗を喫してしまったのです。
この時、長宗我部信親は1000の土佐武士を率いていましたが、
そのうち700余がともに戦死しました。
負傷者も相当いたでしょうから、まさに全滅です。

一方、元親は秀吉から拝領した名馬・内記黒(ないきぐろ)に乗って、
窮地を脱したといわれます。
このエピソードは、「三国志」における曹操の愛馬・絶影(ぜつえい)、
または、劉備の同じく的盧(てきろ)を想起させます。
あるいは、乱戦の中、信親の最後の思いが天に通じ、内記黒を奔らせたのでしょうか。

ちなみに、雪蹊寺に隣接して、明治になって一時、雪蹊寺が廃寺になった時、
元親を祭神として建てられた秦(はだ)神社がありました。
また、その秦神社の裏手の山が、元親が初陣の際、長宗我部氏が
本山氏から奪った長浜城跡だったりと、見どころがいっぱいの地でした。つづく…。(永)


2009年09月19日

かの有名なはりまや橋

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安芸駅から電車で高知駅まで戻った後、ホテルにチェック・イン。その後、街をぶらぶら歩きしようと思っていたのですが、すでに辺りは暗く、やむなくここだけでも見ておこうと向かったのが、はりまや橋。江戸時代に、堀川を挟んで商売を行なっていた「播磨屋」と「櫃屋」が、私設の橋を架けたことが由来といわれています。現在は、小さな公園として整備されたところに、復元された橋が架かっているだけでした。それでも観光客と思しき人が嬉しそうに記念撮影をしていきます。
その晩、はるばる滋賀から撮影のためにクルマで来てくださったカメラマンの近戸さんと合流。打ち合わせ用に私がデジカメで撮った写真を見せたところ、「天気がよすぎますね」との意外なお言葉。昼間は光が強すぎで、おそらく寺社などは細部が影で隠れてしまうだろう、とのことでした。かくして明朝、6時45分スタートとなったのです。つづく…。(永)

2009年09月18日

岩崎弥太郎生家の庭・日本列島の石組

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2泊3日の土佐取材の初日、最後に選んだのは、三菱グループの創始者として知られる岩崎弥太郎の生家。資料館からは割りと近かったけれど、もし安芸駅から直接自転車で向かうとなると、30分弱はかかるかと思われます。途中、なぜか電柱に激突するアクシデントに見舞われながら、へとへとになって目的地に到着。辺り一面に田畑が広がるのどかな風景の中に、岩崎弥太郎の生家はありました。説明板によれば、岩崎弥太郎の先祖はなんと安芸国虎の家臣だったようで、長宗我部家の安芸支配の後は、長宗我部家に仕えたそうです。
ところで、弥太郎の生家の庭には、幼少の弥太郎が将来の雄飛を夢見て遊んだという、日本列島の石組みが残されていました。まさに「栴檀は双葉より芳し」という、ことわざどおりの少年だったようです。
その後、駅で借りた自転車の返却期限である18時に間に合わせるべく、猛烈な勢いでペダルを漕ぎ、安芸駅に戻ったのでした。つづく…。(永)

2009年09月17日

安芸城跡

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岡豊(おこう)城の見学を終えた後、後免(ごめん)駅に戻り、次は土佐くろしお鉄道に乗って安芸(あき)駅へ向かいました(所要時間48分、890円)。駅では自転車が無料で借りられ、たいへんありがたかったものの、これまで快晴だった天気が一転し、小雨が降ってきました。めざす安芸城跡までは、自転車(全速力)に乗って10分ぐらいの距離でしたが、風雨は強くなる一方で、難儀いたしました。城内の安芸市立歴史民俗資料館に着いた頃は、すでに16時30分。資料館は17時で閉まるので、急いで見学を済ませます(大人300円)。

戦国時代、安芸城は長宗我部元親と争った安芸国虎の居城でしたが、関ケ原合戦後、山内家の重臣・五島氏の居館とされました。資料館には、山内一豊に従った五島吉兵衛が一豊の顔から抜いたという、あの有名な矢じりが展示されていました(痛そうでした)。

その後、安芸城の遠景を写真におさめるのはどこがよいか、自転車で辺りを散策。近くの天神坊橋を通り、対岸の公園の辺りから安芸城を見るのがベストと判断、デジカメのシャッターを押します(手前が安芸川になります)。岡豊城と違って安芸城は天然の要害というよりも、小さな山に築かれていたようです。つづく…。(永)

2009年09月16日

岡豊城より「土佐のまほろば」を眺めて

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浦戸城見学が終わった後、桂浜公園で龍馬の銅像を見たりして、タクシーで高知駅へ。そして高知駅でJR土讃線に乗り、後免駅で下車(所要時間20分、260円)。そこから再びタクシーに乗って、長宗我部家歴代の牙城、岡豊(おこう)城に向かいました。

岡豊城の二ノ段からは香長平野が見渡せるのですが、この眺めは昔から「土佐のまほろば」と呼ばれる美しい景色です。まほろばとは、もっともすばらしい国という意味。付近には、国親・元親が建てた国分寺金堂をはじめ、多数の史跡が残されており、悠久の歴史を感じさせてくれました。元親もこの風景を見て、天下への夢を膨らませていたのかもしれません。

山の中腹には、立派な高知県立歴史民俗資料館(大人450円)があり、充実した展示内容に大満足でした。さすが歴史のくに、高知!

(ちなみに館内の長宗我部の表記は、ちょうそかべ ではなく、ちょうそがべ となっておりました)


後日、宅間館長にもご面談をいただき、私の素朴な質問の嵐にもかかわらず、ていねいにご回答くださって、恐縮のかぎりでした。今後の長宗我部研究は、いわゆる軍記物によらない発給文書(もんじょ)などの史料による精査が必要になってくるとのことでした。つづく…(永)


2009年09月15日

浦戸城天守跡

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さて肝心の浦戸城天守跡への入り口は、桂浜荘そばの階段から歩いていくことができます。天守部分は思ったより狭く、今では小さな祠があるのみでした。
しかし、説明板によれば、往時はここに三層の天守が建っていたとのことで、驚きました。また、お城の斜面には石垣の一部が残っているそうですが、この日は確認できませんでした。
天正19年(1591)頃、元親がここに拠点を移してから、関ケ原合戦後に盛親が土佐一国を召し上げられてしまうまで、ここは土佐の政治と軍事の中心だったのです。つづく…。(永)

2009年09月14日

浦戸大橋を望む

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ところで、土佐取材は2泊3日の予定だったのですが、
初日の目的は、その日の夜に合流予定のカメラマン氏との打ち合わせに備えて、
ビューポイントの下見をできるだけしておくことでした。

そんなことで高知城をゆっくり見学している暇はなく、
龍馬の銅像で有名な桂浜公園の山頂にある、
浦戸城あとに向かうことにしました。

(バスで行くには時間がかかりすぎるので、タクシーに乗りました)

土佐湾に面した道路を走行中、桂浜公園の山頂に
国民宿舎の桂浜荘が見えてきました。

運転手さんが「あそこが浦戸城の本丸があったところだよ」と
教えてくれます。さすが地元の歴史にお詳しかった。

山頂には桂浜荘と隣接して、坂本龍馬記念館がありました(大人500円)。

写真は、その記念館の屋上から、浦戸大橋方面を撮影したものです。

橋下は浦戸湾口にあたり、長宗我部水軍の錬兵が行なわれたところだそうです。

元親・盛親父子も、その風景をこの辺りから見ていたのかもしれない…
ということを、長曾我部最高委員会の総大将・右衛門太郎さんから
聞き及んでいたため、感慨もひとしおでした。
歴史のロマンを感じます。

お昼は桂浜荘でいただきました。

郷土料理もたくさんあったのですが、旅先では、時に
カツ丼とかカレーライスを食べたくなってしまことがあり、
結局、カツ丼をいただいた次第です。つづく…。(永)


2009年09月13日

高知城内の一領具足の像

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高知龍馬空港に着いた後、バスで高知市街のはりやま橋へ(700円)。
そこから徒歩7、8分歩くと、高知城です。
(なお、市街には東西南北に電鉄が走っており、それに乗ってもよかったのかもしれません)

高知城は関ケ原合戦後、掛川から入国した山内一豊が築いた城です。
じつは長宗我部元親もこの地に居城を置こうとしたのですが、
潮江川(鏡川)や江ノ口川の氾濫に悩まされ、断念した経緯がありました。

近年、その元親時代のものと見られる石垣が発見されているそうです。

さて城内には、一領具足の像がありました。

「一領具足」とは、戦国期の長宗我部氏を描いた『土佐物語』によれば、
「田に出る時にも、槍の柄に草鞋(わらじ)・兵糧をくくり付け、畦に立て置き、すは戦といえば鎌・鍬を投げ捨てて、馬一匹で走り回った命知らずの野武士である」
と記されています。

また城内の説明板には、「長宗我部元親の活躍に一領具足の働きは大きい。信頼も厚く、阿波平定の折り、元親が家老と一領具足をそれぞれ別室に集めて戦略を述べさせ、一領具足の意見を採用したというエピソードも伝わっている」とありました。

長宗我部といえば、この一領具足なのですが、あとで彼らの思わぬ悲劇を知ることになりました。つづく…。(永)


2009年09月11日

特集「長宗我部元親と盛親」制作中!

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「歴史街道」11月号(10月6日発売)
の特集は、
10月号の次号予告どおり、
「長宗我部元親と盛親」でございます。

長宗我部家に関しては、学生時代に読んだ
司馬さんの「夏草の賦」と「戦雲の夢」以外に
ほとんど知識がない私ですが、
2008年2月号で
「長宗我部元親の野望」という小さな特集を
組んだことがあります。
(「戦雲の夢」が好きという方は、
本当にたくさん
 いらっしゃいますね。後輩のM氏もそうですが)


しかし今回は総力特集ということで、
より深くアニキのリアルな魅力を探るべく、
いってまいりました、土佐に…。

8:35羽田発の高知龍馬空港行きに乗って09:55着。

あっという間です。

空港では早速、龍馬像が迎えてくれました。

記念撮影モードの方々が何組かむらがって、
龍馬人気のすごさを改めて痛感しました。

でも今回は、長宗我部です。

本ブログでは、発売まで、体力と気力のつづく限り、
たびのレポートをアップして参りたいと思っております。
つづく…(永)