天誅組に加わった長宗我部一族の子孫
また、雪蹊寺の西には、国事で亡くなった方を弔う
忠魂墓地があり、その中でもひと際目立っていたのが、
島義親の墓碑でした。
義親は長宗我部四郎ともいい、脱藩後は
浪間(なみま)と称しました。
遠祖は長宗我部氏の一族に連なるそうです
(それ以上、詳しいことはわかりません)。
義親は、文久3年(1863)、藩命で上京。
三条実美の衛士となり、脱藩後、
天誅組の大和挙兵に参加しましたが敗れ、
同志と中山忠光を擁して長州の三田尻に逃れ、忠勇隊に入りました。
元治元年(1864)の禁門の変では、その忠勇隊に属して戦ったそうです。
その後、諸藩への遊説を計画して、山陰道に入り、再び京を目指した
ところ、美作国土居で賊と誤解され、同志と刺し違えて死んだそうです。
坂本龍馬もその死を惜しんだとか。
立派な墓碑に島義親に対する土佐人の追慕の念を思いました。つづく…。(永)
参考:「明治維新人名辞典」(吉川弘文館)他
コメント
この時期に天誅組に関する記事を観て感激いたしました。土佐といえば龍馬さんですが、その四天王の一人吉村虎太郎率いる土佐勢が主力となり河内勢や十津川勢と共に戦った、最初の武力討幕戦をもっとたくさんの方々に知っていただきたいものです。
投稿者: 草村克彦 | 2009年11月28日 20:37