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2010年06月28日

真田幸村像

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真田ファンにはおなじみの(!?)上田駅前、幸村像です。

2010年06月25日

信濃国分寺(三重塔)

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上田市の信濃国分寺の三重塔は、室町期の創建とされ、
重要文化財に指定されています。

信濃国分寺は、慶長5年(1600)、徳川秀忠の命を受けた真田信幸が昌幸と会い、降伏交渉をした地とされます。

一時は昌幸も応じる気配を示しましたが、それは時間稼ぎのためにすぎませんでした。

ところで、中山道を進んだ徳川軍の上田城攻撃は、昌幸に翻弄された秀忠の若気の至りであった…、
といわれることがありますが、それは誤解のようです。

秀忠が諸方面に送った諸状には、「信州真田表仕置」のためとあるように、秀忠軍が中山道を進軍したのは、東軍一色に染まった信州の中で、唯一反旗を翻した昌幸を従えるためでした。

つまり、上田城攻撃は家康の命令によるもので既定路線であり、何も秀忠の独断に基づくものではなかったのです。

ただし、当時昌幸は信州で孤立無援の状況でしたから、大軍で上田城を囲めば降伏勧告に応じると、家康は思ったのかもしれません。

ところが、昌幸は秀忠の降伏勧告をはねつけ、秀忠軍は上田城攻略に失敗。

そこへ折しも届いたのが、家康からの至急上洛命令で、
秀忠にしてみれば、まさに踏んだり蹴ったりの状況に陥ってしまったのでした。


2010年06月22日

白鳥神社

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真田氏のルーツには諸説ありますが、
滋野三家(海野、望月、祢津)の盟主とされる
海野一族の流れである、というのが有力です。

白鳥神社(東御市本海野)はその海野一族の
氏神とされ、この辺りが海野氏の本拠地でした。

白鳥神社は真田氏からもあつく崇敬されました。

 

2010年06月17日

海野宿

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真田地域の取材を終えた後、
北国街道の宿場の一つ、
海野宿へと向かいました(現・東御市)。

海野(白鳥)宿の歴史は古く、
木曾義仲が挙兵したのはこの辺りといわれ、
「上田市誌」によれば、
戦国の武田時代には伝馬制によって
ここに宿郷(宿駅・宿場)が設けられていました。

小県では、他に和田・大門・長窪・丸子に
宿郷があったとされます。
(他にもあったかもしれません)

現在でも江戸時代の旅籠屋造りの建物が延延と続き、
時代物ファンにはたまらない場所と感じました。

真田氏本城跡⑦

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真田氏本城跡で、一点、重要な写真を載せ忘れていました。

写真は、城跡から今の松代(川中島)方向を遠くに望んだものです。
(雲でほとんど隠れてしまっていますが…)

真田地域から川中島に至るには、
今の上田に出て、千曲川沿いに北国街道を行くのが
一つの方法です。

しかしそれとは別に、上田には出ず、真田地域から
山間の道を進み、地蔵峠を越えて行く方法もありました。
(ほぼ今の長野県道35号線に沿うルート)

真田氏が上田を本拠地にするのは、昌幸が城を築いて
からなので、その前は、このルートで川中島方面の
情勢を探っていたのかもしれません。

2010年06月11日

信綱寺

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真田昌幸が兄信綱の
位牌所とした信綱寺です。

宝物館には長篠の戦いで戦死した
信綱の首級を包んで運んだという
血染めの陣羽織があるそうですが、
ご住職がご不在で見学はかなわず。

他日を期すことになりました。

山家神社

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四阿山を奥宮とし、
その里宮として神川流域一帯の
人々に崇敬されてきた山家神社です。

真田氏も厚く保護しました。

山家神社が勢力を誇ったのは、
四阿山、根子岳の裾野が
古代の牧として重要な位置を
占めていたからだそうです。

それはこの辺りが馬の生産地という
軍事的な拠点だったことを意味し、
また真田氏の祖先は
牧場を経営した武士だったのではないか、
との推測も成り立つそうです。

確かにこの辺りは、不思議と至るところに
小川が流れ、馬の放牧に適した草地に溢れている
印象がありました。

まさに山家神社は、真田一族の聖地にふさわしい
場所といえそうです。

2010年06月10日

角間渓谷⑩

画像の確認

角間渓谷内には、坂上田村麻呂が鬼退治をしたと
伝わる鬼ケ城があるそうですが、こちらまで行く
時間的余裕がありませんでした。
案内板のみ掲載します。

角間渓谷⑨

画像の確認

角間渓谷の案内板です。

角間渓谷⑧

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渓谷内には、真田幸村が茶立てに使ったと
伝わる清水が湧いていました。
その伝承の曖昧さから、米沢の慶次清水を
思い出してしまいました。

角間渓谷⑦

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渓谷内を流れる角間川です。
その上流を辿ると、やがて
角間峠にいたり、上州に
抜けるわけなのですが、
ここは真田一党の秘密路では
なかったか、などという想像も
わきました。

角間渓谷⑥

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またこの辺りは、真田の隠し湯があったとされ、
今でも温泉宿があります。
まさに秘湯というのが、ピッタリの風情でした。

2010年06月09日

角間渓谷⑤

画像の確認

猿飛佐助の修行地を示す案内板です。

角間渓谷④

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岩屋観音からは、さらに猿飛佐助が修行したという
登山道がつづいておりましたが、とても行ってみる
勇気はありませんでした。

角間渓谷③

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先ほどの階段を上りきったところにある、
岩屋観音の写真です。

角間渓谷②

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角間渓谷内の岩屋観音へと続く階段です。
210段あり、そうとう体力を消耗しました。
どうやらこのあたりは、修験道の修行の地
だったようです。
そんなことから、忍者の修行の地であった
という伝説が生まれたかもしれません。


角間渓谷①

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松尾古城から角間川沿いに奥地に進んでいくと、
奇石巨石がつらなる角間(かくま)渓谷に至ります。
猿飛佐助が修行したという伝説が残ります。
この絶壁を登るのでしょうか。
今でいうロック・クライミングなのでしょうが、
それにしてもかなり危険な修行です。

2010年06月08日

安智羅明神

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日向畑遺跡に隣接して、安智羅(あんちら)明神が
まつられていました。
本尊の安智羅様は幸隆18歳の時の像といわれます。
 ※お社の中に木像があります。

日向畑遺跡②

画像の確認

日向畑遺跡の案内板です。

日向畑遺跡①

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神川と角間川の合流点にある松尾古城(松尾城とも)。
その登り口にある日向畑(ひなたばたけ)遺跡は、
室町から戦国時代にかけてのもので、真田一族の墓と考えられています。

2010年06月07日

長谷寺④

画像の確認

長谷寺の案内板です。

長谷寺③

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左から一徳斎(いっとくさい)夫人、一徳斎、干雪(かんせつ)の墓です。
一徳斎は幸隆、干雪は昌幸のことです。

長谷寺②

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長谷寺の庭園です。

長谷寺①

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つづいて真田氏の菩提寺・長谷寺です。
ここは、見事なシダレザクラで有名で、
石型のアーチは創建当時のものだそうです。

2010年06月03日

砥石城の麓、神川②

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千戸温泉での、山ツツジとカラスアゲハの組みあわせです。
あえてコメントは付しません。

砥石城の麓、神川①

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砥石城の東側には、神川が流れます。

写真は、現在の千古温泉付近で撮影したものです。

このように砥石城の東側は、急流の神川と
絶壁で天然の防壁をなしていることがわかります。

天文19年(1550)、信玄が砥石城を攻めた際は、
東側からではなく、南側から攻めたと思われます。
しかし、横田備中守など千余人が討ち取られ、
失敗。いわゆる砥石崩れです。

しかし、その翌年、真田幸隆は、単独で
砥石城の攻略に成功します。

記録では、「砥石ノ城真田乗取」(「高白斎記」)とあるのみで
詳細については不明ですが、案内してくれたタクシーの運転手
さんによれば、幸隆はまさにこの東側から攻めたそうです。


真田氏本城跡⑥

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本郭跡のお地蔵さんです。
安政年間の建立みたいです。

真田氏本城跡⑤

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真田氏本城跡から、四阿山(あずまやさん)方向を望みます。

晴れていれば、右に四阿山、左に根子岳が見えたはずですが、
あいにく雲に隠れてしまって、右にうっすらと四阿山が見えるのみです。

四阿山(2333m)は、加賀の白山(はくさん)の系統の信仰で、
古くから修験道の聖地でした。

山頂には小さな祠がいまも祀られているそうです。

真田氏本城跡④

画像の確認


別の案内板です。
ピンボケ気味ですいません。

真田氏本城跡③

画像の確認

真田氏本城跡の案内板です。

真田氏本城跡②

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写真の一番奥、高くなったところが、本郭部分です。
さらにその奥へ、二郭、三郭へと続きます。

2010年06月02日

真田氏本城跡①

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真田氏本城跡の名は近年つけられたもので、古くは松井城などと呼ばれていました。
写真で見るとおり、眼下に上田盆地や砥石城、上州道を望むまさに絶好の位置にありました。
※右側の手前の山並みが砥石城(正確には左から、米山城、砥石城、本城、枡形城)。
  写真では分かりませんが、そのさらに手前を神川が流れ、上州道が通っています。
  また南西に広がる緩斜面が、現在の本原町一帯になります。

真田氏館跡(お屋敷公園)④

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真田氏館跡から、砥石城を望んだ写真です。

真田氏館跡(お屋敷公園)③

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真田氏館跡の大手門です。

真田氏館跡(お屋敷公園)②

画像の確認

真田氏館跡の案内です。

真田氏館跡(お屋敷公園)①

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今回から海道龍一朗先生の連載小説「我、六道を懼れず」の作品世界の基礎知識として、
真田町周辺の写真をアップしていきたいと思います。

第1回目は、真田町本原(もとはら)の真田氏館跡(お屋敷公園)です。
真田氏館跡は、上田城築城跡の真田氏の居館跡とされます。

ここはツツジの名所として知られています。
取材で訪れた際も、東曲輪から西曲輪一帯にツツジが咲き乱れ、
幻想的な雰囲気でした。

なお、真田町本原は、昔は原、または原之郷と呼ばれていました。
しかし昌幸が上田城を築いた際、 住民を城下に移動させて原町ができたので、ここは本原とされました。

現在の真田町本原は、烏帽子岳(えぼしだけ)一帯から流れ出た大沢川によって作られた
扇状地一帯を指します。


また、こことは別に、山家神社の近くにも真田氏の館跡があるそうです。