真田幸村像
真田ファンにはおなじみの(!?)上田駅前、幸村像です。
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真田ファンにはおなじみの(!?)上田駅前、幸村像です。
上田市の信濃国分寺の三重塔は、室町期の創建とされ、
重要文化財に指定されています。
信濃国分寺は、慶長5年(1600)、徳川秀忠の命を受けた真田信幸が昌幸と会い、降伏交渉をした地とされます。
一時は昌幸も応じる気配を示しましたが、それは時間稼ぎのためにすぎませんでした。
ところで、中山道を進んだ徳川軍の上田城攻撃は、昌幸に翻弄された秀忠の若気の至りであった…、
といわれることがありますが、それは誤解のようです。
秀忠が諸方面に送った諸状には、「信州真田表仕置」のためとあるように、秀忠軍が中山道を進軍したのは、東軍一色に染まった信州の中で、唯一反旗を翻した昌幸を従えるためでした。
つまり、上田城攻撃は家康の命令によるもので既定路線であり、何も秀忠の独断に基づくものではなかったのです。
ただし、当時昌幸は信州で孤立無援の状況でしたから、大軍で上田城を囲めば降伏勧告に応じると、家康は思ったのかもしれません。
ところが、昌幸は秀忠の降伏勧告をはねつけ、秀忠軍は上田城攻略に失敗。
そこへ折しも届いたのが、家康からの至急上洛命令で、
秀忠にしてみれば、まさに踏んだり蹴ったりの状況に陥ってしまったのでした。
真田氏のルーツには諸説ありますが、
滋野三家(海野、望月、祢津)の盟主とされる
海野一族の流れである、というのが有力です。
白鳥神社(東御市本海野)はその海野一族の
氏神とされ、この辺りが海野氏の本拠地でした。
白鳥神社は真田氏からもあつく崇敬されました。
真田地域の取材を終えた後、
北国街道の宿場の一つ、
海野宿へと向かいました(現・東御市)。
海野(白鳥)宿の歴史は古く、
木曾義仲が挙兵したのはこの辺りといわれ、
「上田市誌」によれば、
戦国の武田時代には伝馬制によって
ここに宿郷(宿駅・宿場)が設けられていました。
小県では、他に和田・大門・長窪・丸子に
宿郷があったとされます。
(他にもあったかもしれません)
現在でも江戸時代の旅籠屋造りの建物が延延と続き、
時代物ファンにはたまらない場所と感じました。
真田氏本城跡で、一点、重要な写真を載せ忘れていました。
写真は、城跡から今の松代(川中島)方向を遠くに望んだものです。
(雲でほとんど隠れてしまっていますが…)
真田地域から川中島に至るには、
今の上田に出て、千曲川沿いに北国街道を行くのが
一つの方法です。
しかしそれとは別に、上田には出ず、真田地域から
山間の道を進み、地蔵峠を越えて行く方法もありました。
(ほぼ今の長野県道35号線に沿うルート)
真田氏が上田を本拠地にするのは、昌幸が城を築いて
からなので、その前は、このルートで川中島方面の
情勢を探っていたのかもしれません。
真田昌幸が兄信綱の
位牌所とした信綱寺です。
宝物館には長篠の戦いで戦死した
信綱の首級を包んで運んだという
血染めの陣羽織があるそうですが、
ご住職がご不在で見学はかなわず。
他日を期すことになりました。
四阿山を奥宮とし、
その里宮として神川流域一帯の
人々に崇敬されてきた山家神社です。
真田氏も厚く保護しました。
山家神社が勢力を誇ったのは、
四阿山、根子岳の裾野が
古代の牧として重要な位置を
占めていたからだそうです。
それはこの辺りが馬の生産地という
軍事的な拠点だったことを意味し、
また真田氏の祖先は
牧場を経営した武士だったのではないか、
との推測も成り立つそうです。
確かにこの辺りは、不思議と至るところに
小川が流れ、馬の放牧に適した草地に溢れている
印象がありました。
まさに山家神社は、真田一族の聖地にふさわしい
場所といえそうです。
角間渓谷内には、坂上田村麻呂が鬼退治をしたと
伝わる鬼ケ城があるそうですが、こちらまで行く
時間的余裕がありませんでした。
案内板のみ掲載します。
角間渓谷の案内板です。
渓谷内には、真田幸村が茶立てに使ったと
伝わる清水が湧いていました。
その伝承の曖昧さから、米沢の慶次清水を
思い出してしまいました。
渓谷内を流れる角間川です。
その上流を辿ると、やがて
角間峠にいたり、上州に
抜けるわけなのですが、
ここは真田一党の秘密路では
なかったか、などという想像も
わきました。
またこの辺りは、真田の隠し湯があったとされ、
今でも温泉宿があります。
まさに秘湯というのが、ピッタリの風情でした。
猿飛佐助の修行地を示す案内板です。
岩屋観音からは、さらに猿飛佐助が修行したという
登山道がつづいておりましたが、とても行ってみる
勇気はありませんでした。
先ほどの階段を上りきったところにある、
岩屋観音の写真です。

角間渓谷内の岩屋観音へと続く階段です。
210段あり、そうとう体力を消耗しました。
どうやらこのあたりは、修験道の修行の地
だったようです。
そんなことから、忍者の修行の地であった
という伝説が生まれたかもしれません。
松尾古城から角間川沿いに奥地に進んでいくと、
奇石巨石がつらなる角間(かくま)渓谷に至ります。
猿飛佐助が修行したという伝説が残ります。
この絶壁を登るのでしょうか。
今でいうロック・クライミングなのでしょうが、
それにしてもかなり危険な修行です。
日向畑遺跡に隣接して、安智羅(あんちら)明神が
まつられていました。
本尊の安智羅様は幸隆18歳の時の像といわれます。
※お社の中に木像があります。
日向畑遺跡の案内板です。
神川と角間川の合流点にある松尾古城(松尾城とも)。
その登り口にある日向畑(ひなたばたけ)遺跡は、
室町から戦国時代にかけてのもので、真田一族の墓と考えられています。
長谷寺の案内板です。
左から一徳斎(いっとくさい)夫人、一徳斎、干雪(かんせつ)の墓です。
一徳斎は幸隆、干雪は昌幸のことです。
長谷寺の庭園です。
つづいて真田氏の菩提寺・長谷寺です。
ここは、見事なシダレザクラで有名で、
石型のアーチは創建当時のものだそうです。
千戸温泉での、山ツツジとカラスアゲハの組みあわせです。
あえてコメントは付しません。
砥石城の東側には、神川が流れます。
写真は、現在の千古温泉付近で撮影したものです。
このように砥石城の東側は、急流の神川と
絶壁で天然の防壁をなしていることがわかります。
天文19年(1550)、信玄が砥石城を攻めた際は、
東側からではなく、南側から攻めたと思われます。
しかし、横田備中守など千余人が討ち取られ、
失敗。いわゆる砥石崩れです。
しかし、その翌年、真田幸隆は、単独で
砥石城の攻略に成功します。
記録では、「砥石ノ城真田乗取」(「高白斎記」)とあるのみで
詳細については不明ですが、案内してくれたタクシーの運転手
さんによれば、幸隆はまさにこの東側から攻めたそうです。
本郭跡のお地蔵さんです。
安政年間の建立みたいです。
真田氏本城跡から、四阿山(あずまやさん)方向を望みます。
晴れていれば、右に四阿山、左に根子岳が見えたはずですが、
あいにく雲に隠れてしまって、右にうっすらと四阿山が見えるのみです。
四阿山(2333m)は、加賀の白山(はくさん)の系統の信仰で、
古くから修験道の聖地でした。
山頂には小さな祠がいまも祀られているそうです。
別の案内板です。
ピンボケ気味ですいません。
真田氏本城跡の案内板です。
写真の一番奥、高くなったところが、本郭部分です。
さらにその奥へ、二郭、三郭へと続きます。
真田氏本城跡の名は近年つけられたもので、古くは松井城などと呼ばれていました。
写真で見るとおり、眼下に上田盆地や砥石城、上州道を望むまさに絶好の位置にありました。
※右側の手前の山並みが砥石城(正確には左から、米山城、砥石城、本城、枡形城)。
写真では分かりませんが、そのさらに手前を神川が流れ、上州道が通っています。
また南西に広がる緩斜面が、現在の本原町一帯になります。
真田氏館跡から、砥石城を望んだ写真です。
真田氏館跡の大手門です。
真田氏館跡の案内です。
今回から海道龍一朗先生の連載小説「我、六道を懼れず」の作品世界の基礎知識として、
真田町周辺の写真をアップしていきたいと思います。
第1回目は、真田町本原(もとはら)の真田氏館跡(お屋敷公園)です。
真田氏館跡は、上田城築城跡の真田氏の居館跡とされます。
ここはツツジの名所として知られています。
取材で訪れた際も、東曲輪から西曲輪一帯にツツジが咲き乱れ、
幻想的な雰囲気でした。
なお、真田町本原は、昔は原、または原之郷と呼ばれていました。
しかし昌幸が上田城を築いた際、 住民を城下に移動させて原町ができたので、ここは本原とされました。
現在の真田町本原は、烏帽子岳(えぼしだけ)一帯から流れ出た大沢川によって作られた
扇状地一帯を指します。
また、こことは別に、山家神社の近くにも真田氏の館跡があるそうです。
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