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2007年03月06日

「東郷平八郎」発売!

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「歴史街道」4月号は本日6日発売予定です。
総力特集は予告しています通り「東郷平八郎」。

東郷といえば、日露開戦直前に海軍大臣山本権兵衛に
連合艦隊司令長官に抜擢され、その理由を明治天皇に
「運がいい」と説明されたエピソードは有名です。

この伝説の出所は不明ですが、東郷があらゆる海戦で
司令塔の中に入らず、常に艦橋に立ちながらも、
ついにかすり傷一つおわなかったのは、
不思議な強運ぶりを示しています。

しかし、もちろん、東郷は「運がいい」だけの男では
ありませんでした。

東郷は数えで25歳から32歳までイギリスにおり、
近代海軍についての知識を学びました。

明治の司令官クラスで、これほど長期にわたって
海外に留学していた人を、東郷以外に知りません。
(日露戦争時の軍令部次長、伊集院五郎も7年、
 イギリスにいっていましたね)
東郷はイギリスで希望していた海軍士官学校に入れず、
やむなく商船学校のウースターというところに入ります。
学校といっても校舎があるわけではなく、そこはテームズ湖畔に
係留された一隻の「練習船」にすぎませんでした。

そこで東郷は27歳から2年間、十歳年齢の低いイギリス少年たちと、
甲板洗いから始まって航海術、砲術などをあらためて一から学ばな
ければいけなかったのです。

現代人とは覚悟の座り方が違うとはいえ、東郷が帝国海軍をつくる
ために味わわなければいけなかった日本人としての苦難を思うと、
悲痛な気持ちがいたします。

「東郷平八郎」、興味をもっていただければ、幸いです。(殿)

おめでとう その2

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3月4日(日)、歴史街道編集部員の結婚式があり、編集部一同出席してまいりました。
ほんの1年ほど前にも別の編集部員が結婚しており、おめでたいことが続いております。
明治神宮で式を挙げ、明治記念館で披露宴という、なんとも正統派で格式の高い式でした。
司会の方がなかなかユニークな方で、式を盛り上げ、新郎は「若殿!」と何度も呼ばれていました。
そのため、彼のあだ名は当分、「若殿」ということになりそうです。
なにはともあれ、おめでとうございます。

2007年02月15日

私にもいわせて…関ケ原!

編集部に異動して間もない昨年二月ごろ。初めて関ケ原にいってきました。

そこで私が驚いたのは、布陣は東軍に比べ、西軍が圧倒的に有利であること。
石田三成が布陣した笹尾山からは関ケ原が一望できますし、
一方で徳川家康が布陣した桃配山は周囲を西軍に囲まれ、
なんでこんな危ないところに…との思いを強くしました。

明治期にドイツより招かれたメッケルは、
関ケ原の東西両軍の布陣図をみて即、
「西軍勝利」といったそうですが、現地にいけば素人でもそう判断できます。

さらに驚いたのは、小早川秀秋が布陣した松尾山についてです。
去就の定まらぬ秀秋を脅すため、家康は松尾山に鉄砲を撃ちかけさせたと
いいますが、松尾山は麓から山頂まで歩いて40分ぐらいあり、
実際に効果的だったかといえば、そうとう疑問です。

これまで私が小説や漫画で得たイメージでは、
野戦得意の家康が三成を関ケ原に引きずりだし、
またさすが、なるほどと信じていたのですが、
現地を訪れてみると、そもそも、関ケ原は大軍が自由に動けるほど広くなく、
真実は逆だったのではないかと思った次第です。

少なくとも、家康は自ら好んでこの地にやってきたのではない…

確かに、家康は西軍の中の一部の将に寝返りを仕掛けていました。
しかし、合戦当日まで実際はどうなるかわからず、あまりに不確実性
が高すぎて、逆に慎重な家康らしくありません。

なんとなく時の勢いというものが、三成と家康を関ケ原に呼び寄せたの
かもしれません。

みなさまはどう思われますか。 (永)

2007年02月08日

関ケ原人気武将ランキング

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「歴史街道」3月号の大谷吉継特集。
おかげさまで、なかなか好評のようです。ありがとうございます。


さて「歴史街道」では、2000年の4月号で「関ケ原」の特集を組んだ時、
「あなたが好きな関ケ原の武将は誰?」
というアンケートをネット上で実施しました。
そのランキングで栄えある1位に輝いたのは……。


もちろん、我らが大谷吉継でした。
7年前のことで、その号をお持ちの方も少ないかと存じますので、以下、ベスト10の武将たちを紹介していきます。


1位 大谷吉継(西軍)
2位 石田三成(西軍)
3位 徳川家康(東軍)
4位 島津義弘(西軍)
5位 島左近(西軍)
6位 真田幸村(西軍)
7位 本多忠勝(東軍)
8位 藤堂高虎(東軍)
9位 福島正則(東軍)
10位 井伊直政(東軍)


戦いでは負けた西軍が、人気では圧勝しているのが面白いですね。
大谷吉継については、ある女性からこんなコメントが。
「義理堅く、静かなイメージがあります。病身であったことで、人に対する思いやりの気持ちが持てたのかもしれません。負けを覚悟しながら、友である石田三成と関ケ原に臨む姿は、戦国時代の中で自分の利を抜きにした、男らしい武将の一人だと思います」
まさに吉継の魅力を的確に表わしているコメントですね。
また、2位の石田三成については、ある男性のこんな意見が。
「落ち目の豊臣家を最後まで守り抜こうとした点。それと、会社における立場が私と似ている為」
いったいどんな立場なんだろうと想像してしまいますが、
この男性には、味方についてくれる吉継はいたのでしょうか?


みなさんは関ケ原でどの武将がお好きですか?(横)

2007年02月02日

再び、東郷神社を訪ねて

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神社内の回廊に展示されている東郷元帥の生涯を追った「絵」の撮影をするため(もちろん、許可が必要です)、再び東郷神社内にいってきました。東郷神社を訪ねるのはこれで二回目になりますが、なぜかここに来ると「落ち着く」自分を発見したりしています。同行のデザイナー氏も、この静謐な空間に「ほお」と声をもらしていました。ひととおり、撮影が終わり、東郷元帥にお礼をいって帰ろうとしたとき、東郷神社の禰宜の方が、「がんばってください」とお守りをくれました。その名も、百発百中守。いうまでもなく、「連合艦隊解散の辞」で有名な「百発百中の一砲よく百発一中の砲に対抗し得る」からきているのでしょう。そういえば受験シーズンのためか、「合格祈願」の絵馬をたくさん目にしました。試験で「百発百中」するためには、当日に向けて準備万端整えなければいけません。受験生は気持ちを引き締める意味で、東郷神社に絵馬をおさめているのでしょう。かつて受験生だった当時の自分を思い出して、神社をあとにしました。(永)

2007年02月01日

大谷吉継と白虎隊の意外な関係

ええ、歴史街道2月号でも採り上げた、あの幕末の会津の白虎隊です。
なんと飯盛山で自決した白虎士中二番隊19名の一人が、
「歴史街道」3月号で特集する大谷吉継の子孫だったというのです。
その隊士の名は津田捨蔵。


ある日、捨蔵は父から、津田家に伝わる家宝の鎧こそ、
大谷吉隆公(吉継のこと)のものだと教えられます。
父は、吉継が負ける戦とはわかっていても、
三成との交誼を捨てるのは人の道ではないと、
病で目が見えぬ体でありながらも、三成とともに戦ったこと、
そして関ケ原の戦いでいよいよ敗色濃厚となってから、
友人である平塚為広と交わした辞世の句を伝えました。


為広 君の為捨つる命は惜しからじ 終に留まらぬ浮世と思えば
吉継返歌 契りあれば六つの衢(ちまた)に待てしばし 後れ先立つことはありとも


さらに父は、その歌を詠んだ後、吉継が戦場で自害して果てたことを語り、
そのような人物の遺物であるからこそ、先祖から今に至るまで、
大切に所蔵してきたのだ、と語ります。
その話を聞いた捨蔵は、感じ入るものがあったのでしょう。
その古い鎧を着用するや刀を抜き放ち、
三度躍り上がって、敵の首を斬る真似をしたそうです。


津田家が吉継の子孫だったとしても、どの系譜の子孫かはわかりません。
しかし、吉継の娘が真田幸村に嫁ぎ、
その間の娘(吉継の孫)が、大阪の陣の跡、
仙台伊達家の家臣の妻となっていることから、
東北の地に吉継の血統が残されたことはたしかなようです。
いずれにせよ、飯盛山で壮絶な自決を遂げた白虎隊士と、
関ケ原の西軍の名だたる武将の中で、唯一戦場で覚悟の自決をした吉継との間に、
270年もの時を超えて繋がりがあったということには、
何だか感慨深いものがありました。(横)

2007年01月31日

大谷吉継と島左近の意外な関係

「大谷吉継」の総力特集を組んでいる3月号は製作も終わり、
6日の発売を待つばかりとなっております。
さて大谷吉継について、残念ながら誌面では紹介しきれなかった逸話などを一つ二つ。
関ケ原の戦いにおいて、石田三成を支えたのが大谷吉継と島左近ですが、
吉継と左近の関係はどのようなものであったのかは、よくわかりません。
三成を介しての関係というだけで、直接の交流はなかったのかもしれない、
と思っていましたが、この二人に意外な関係が見つかりました。
というのも、左近の嫡子である新吉信勝が、
関ケ原本戦では、なぜか大谷吉継隊に入って戦っているのです。
幾つかの史料は、彼の奮戦ぶりをこう伝えています。


小早川秀秋が西軍を裏切って、松尾山を下りて大谷隊に押し寄せた時、
それに備えていた大谷隊は何倍もの敵を押し返し、
逆に退却する小早川隊を追撃にかかりました。
しかしその大谷隊の側面へ、藤堂高虎隊、京極高知隊が攻撃を仕掛けます。
この時、島新吉は、大声で名乗りをあげ、決戦を挑む者を求めます。
これに応じたのが、藤堂高虎の従兄弟、藤堂玄蕃でした。
壮絶な一騎打ちの末に、新吉が勝利を収め、大谷隊の士気は大いにあがったといいます。
その後、新吉は玄蕃の従者高木平三郎に討ち取られてしまいますが、
新吉は、父左近の名を辱めない立派な勇士だったのでしょう。


残念ながら、左近の嫡男がなぜ父のもとではなく、
吉継の配下となって戦っていたのかはわかりません。
しかし大事な嫡男を預けるにあたって、左近と吉継の間でどんな会話が交わされたのか、
それを想像してみるのも面白いかもしれませんね。
「信義」を知る男同士のやりとりは、きっと胸を打つものだったに違いありません。


新吉が大谷隊に属していることは、
昨年、島左近の特集をつくったときに読んでいるはずなのですが、
まったく記憶に残っていませんでした。
やはり歴史とはいろんな角度から見てみることで、新たな気づきがあるものですね。(横)

2007年01月25日

東郷平八郎も食べた? 岩手県宮古の「いか煎餅」

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前、岩手県宮古に帰省したとき、
「元祖 菅田のいか煎餅」という地元で一番有名なお菓子を、
お土産として買いました。
私も全然知らなかったのですが、
その箱の裏になんと「宮古湾海戦といか煎餅の由来」
という由緒が書かれていたのです。それによると、
箱館に籠る榎本武揚の旧幕軍を攻略にむかう途中、
新政府軍の艦隊は休養と補給のために宮古に寄港し、
新政府軍将兵の上陸によって町は賑わいました。
製菓業を営む菅田家初代吉太郎さんはそれをみて、
海産物を利用した珍菓を売り出そうと考えます。
それで、乾するめの煮出し汁で小麦粉、砂糖を固く煉り上げて、
それをカキモチ様に焼上げて売り出したところ、将兵に好評を博したそうです。
その後カキモチ様を煎餅に変えて、現在の「いか煎餅」が生まれたんだとか。


宮古湾海戦には、若き日の東郷平八郎も参戦しているので、
ひょっとしたら、食べていたのかも???
そうやって想像を膨らますのも面白いですが、
幕末・明治の市井の人の姿が思い浮かぶ魅力的な由緒書なので、
紹介させていただきました。
もちろん、お味の方もグッドです!(村)

2007年01月22日

総力特集「大谷吉継」鋭意製作中

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今年の東京の冬は、比較的あたたかいですね。
携帯のカメラなので、あまり綺麗には撮れませんでしたが、通勤途中で、もう梅が咲いていました。
うめ~は~咲い~たか、さく~らはまだかい~な♪
なんて口ずさみながら、この分では今年は桜も早いかな、と考えていました。


さて、話題はまったく変わりますが、「歴史街道」3月号(2月6日発売)では、
「大谷吉継」の特集を予定しております。
大谷吉継といえば、関ケ原で負けると思っていながらも、
友の石田三成のためにともに戦うことを決意したことから、非常に人気の高い武将です。
しかし、先日、少し不安に思うことが。
帰り道、社内の別の雑誌の編集部の者と電車に乗り合わせた時のことです。
「次、歴史街道は特集で何をやるんですか?」
と聞かれたので、
「大谷吉継だよ」と胸を張って答えました。すると、
「それって誰ですか?」
と聞かれてしまったのです。
まさか、大谷を知らないなんて……と思ってしまいましたが、
たしかに歴史の教科書に出てくるような人物でもないし、
学校の授業でしか歴史に触れたことがない、という人には馴染みがない人なんですね。
こういう歴史に関わる仕事をしていると、いろんなことが当たり前になってしまい、
そういう「普通」の感覚を失ってしまうことがあります。
すると雑誌の中でも、難しい専門用語を使ったとしても、
「これは当たり前」と思って説明を省いてしまったりすることがあるんですよね。
気をつけたいと思います。


ちなみにその彼は「直江兼続」も知りませんでした。
「兜に“愛”という文字をつけた戦国武将がいるんだよ」
といっても、信じてもらえませんでした。
これは昔、「トリビアの泉」で採り上げられていたくらいですから、
直江兼続も知らない人が多いんでしょうね。(横)

2007年01月05日

あけましておめでとうございます

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編集部は今日が仕事始めです。
みなさまはお正月、いかが過ごされましたでしょうか。
私は年末から実家に帰り、おせち料理を食べたり、初詣に行ったり、テレビで箱根駅伝を見たりと、非常にスタンダードなお正月を送りました。


写真は我が家のおせち料理です。私も少々ですが、つくるのを手伝いました。


数の子、ごまめ(田作)、蓮根、くわい、金時にんじん、黒豆、里芋、ふき、たけのこ、栗きんとん、こんにゃく、などなど。
お雑煮は白味噌で、中に入るのは「丸餅」です。
我が家の特徴は、棒鱈(ぼうだら)の煮物でしょうか(左のお重)。


棒鱈とは、マダラの干物のこと。
北海道近海でとれたマダラは日持ちがしないため、干物として流通され、
昔は宮中への献上品となっていたそうで、
江戸時代は北前船で関西方面へと運ばれたそうです。
わが家はもともと京都出身のため、この棒鱈は当たり前だったのですが、
東京に来ると、その存在すら知らない人が多いので驚きました。
「食べてみたい」という方は、京都に行かれたときに、
八坂神社近くの円山公園の中にある、
「いもぼう平野家本家」さんに行かれるのがいいかと思います。
これまた珍しい食材である「海老芋」と一緒に棒鱈を炊いた、
「いもぼう」という名物料理があります。
海老芋はもともと九州で取れる里芋の一種だったそうで、
平野家さんの初代当主が九州行幸に付き添った際に、京都に持ち帰ったとのこと。
北海道の棒鱈と九州の海老芋が京都の料理人によって出合って、
京都の名物料理になったというのも、なかなか面白い取り合わせですね。


昨年の4月に始まったこのブログも、初めてのお正月を迎えました。
とはいえ、本日よりお正月気分を抜いて、仕事にとりかかります。
今年も「歴史街道」と当ブログをよろしくお願い申し上げます。(横)

2006年09月27日

十万石の最中?

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写真家の方より、編集部にお土産で最中(もなか)をいただきました。
手に持つと、なんともずっしり重量感があります。
商品名を見ると、「上總大多喜城 最中十万石」とあります。
十万石とはこれまた豪勢な最中です。
「さて、大多喜城とは誰の城だったかな」
と思い、箱に入っていたしおりを見ると、家康四天王の一人、本多平八郎忠勝(十万石)によって、慶長14年(1609)に築城された平山城であるとのこと。
本多忠勝は、
「家康に過ぎたるものは、唐の頭と本多平八」
と謳われたことで有名ですね。


そして最中の表面には本多忠勝の「立ち葵」の紋所が。
しおりによれば、忠勝の紋所はもともと「三つ葉葵」であったものを、
家康の紋所「立ち葵」と交換したそうです。
(残念ながら、交換した理由は書いてありませんでした)


さて、お味の方ですが、ほどよい甘さのあんこがぎっしり詰まっていて、
「十万石」の名に恥じない濃厚なおいしさ。
「甘いものを食べた」という満足感を存分に与えてくれます。
夕飯をまだ食べていない編集部員にとって、この上ないエネルギー補給となりました。
あれ。でも、満たされたらちょっと眠気が……(横)

2006年09月22日

原哲夫先生インタビュー!

11月号の総力特集で前田慶次郎をとりあげるのですが、
そのなかで、『花の慶次』を描かれた原哲夫先生にインタビューしてきました。
原先生といえば、私が少年時代に食い入るように読み、
そして毎週のアニメを楽しみにしていた『北斗の拳』の漫画家です。
まさか20年たって、お目にかかる機会があるとは思っていませんでした。


失礼な質問をしたら、「北斗百烈拳」かな、それとも秘孔を突かれるかな、
と、どきどきしながらいざご対面。
漫画のイメージと違って、ごくごく気さくな、親しみやすい方でした。
しかし、そのひと言ひと言に重みがあって、
まさに「漢」と書いて「おとこ」の風格を持ち合わせていました。
原作者の隆慶一郎先生との思い出、
「北斗の拳」「花の慶次」にかけた思い、
そして「花の慶次」の登場人物など、歴史上の人物の魅力など、
熱く語っていただきました。
「命をかける覚悟でやってこそ、何かを成し遂げられる。
僕も北斗の拳や花の慶次をそのくらいの覚悟で描いてきました」
「追い詰められたときに死を覚悟しなきゃと思うと切り抜けられる。
逃げようとか、助けてとか思うとだめなんですよ」
などなど、原先生ならではのお話をたくさんいただきました。
このインタビュー記事は、10月6日発売の11月号に掲載されます。
詳しくはぜひそちらをご覧下さい。(横)

2006年07月20日

「さんま」と「しらす」

昨夜、テレビで「明石家さんま、白洲次郎に会いに行く」という番組を観ました。
なぜさんまさんが白洲次郎を好きなのか? と思いましたが、
そのきっかけは語られませんでしたね。
しかし、宮沢喜一元首相があまり昔のことを話さない方だとは聞いていたのですが、
さんまさんをもってしても、ほとんど話を引き出せないものなんですね。
今や戦後の政界の裏側にいた時代の白洲次郎を知る、唯一の人なのでしょうから、
詳しい話が聞けなかったことは残念です。


面白かったのは白洲次郎のお孫さんのお話。
子供のころ、白洲次郎の肩を揉みながらいろいろ話を聞いていたらしいのですが、
思ったことを率直に口にする癖を譲り受けてしまい、
社会に適応するのに苦労した……という意味のことを苦笑しながら話されていました。


さて、一つ気になったのは「白洲」の発音です。
私は しらす と平板に発音しているのですが、
(「師走」と同じイントネーションですね)
番組のナレーションの江守徹さんは、

 らす
と、「し」にアクセントをおいて発音してらしたのです。
あまりに瑣末なことで、改めて追加取材をするのも憚られるのですが、
本人はどちらを使ってたんでしょうね。(横)

2006年07月18日

怪談に脅える人々

以前、誌面に掲載するために、何かといわくのある平将門の首塚を撮影したところ、
滅多に病気にならない編集長が高熱を発し、後輩部員がある病気で手術をするなど、
編集部内に不穏なことが相次ぎました。
しかし、私だけは何の異変もなかったため、たいへん恨まれることとなりました。


さて、次号の編集後記にも少し書いたのですが、
私は今、8月6日発売の9月号で、「怪談」特集を手がけています。
その中の「東京鳥肌散歩」という企画で、都内の怨霊スポットを幾つか訪ねたのですが、
将門の時の例があるためか、編集部のみんなが異常に怖がっているのです。
ちゃんと不測の事態がないように、四谷のお岩稲荷神社にもお参りしてきたのですが、
みんな「変なものつれてくるなよ」「何かあったらお前のせいだ」と、脅えるばかりです。


ただ、怖がるくらいならいいのですが、
「家のテレビが壊れた」
「変なものを食べ過ぎて、腹をこわした」
「昼食時に注文したものが来るのが遅かった」
ことまで、私のせいにしないでくださいね、M君。
それこそ、幽霊たちに怒られますよ。
今のところ、たいした異変は起こっていないのですから。(横)

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2006年06月30日

蹴鞠の達人

先日の「理想の日本代表」の記事ですが、
予想以上に多くの方からご感想をいただきました。
やはり、日本代表に期待していた人がそれだけ多かったということでしょうか。


さて、MFに「平安貴族から一人」といういい加減な書き方をしていたところ、
蹴鞠の達人として、推薦が二人ありました。ありがとうございます。
まず一人目は、わが編集長からの推薦、今川氏真です。
氏真は、桶狭間で信長に敗れたあの今川義元の息子です。
桶狭間の後、氏真は松平(徳川)、武田などにあっというまに所領を奪われてしまいます。
氏真は北条氏を頼りますが、その北条氏が武田と結んだため、
今度は徳川家康の庇護下に入ります。
そして家康とともに上洛して父の仇、信長に拝謁し、
その面前で、得意の蹴鞠の妙技を披露したという話が残っています。
ただ、日本代表として世界を相手に戦うには、もう少し芯の強さが欲しいところ。
そう思っていたら、まさに「蹴鞠の達人」と謳われたすごい人を教えてもらいました。

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2006年06月23日

編集部員のぼやき???

ひょっとしたらお気付きの方もいらっしゃるかもしれませんが、
密かな人気を博しつつも、
編集部員にとっては非常に恐ろしい「編集長のぼやき」が最近、更新されていません。
これは何を意味するのでしょうか?
ところでぼやきといえば楽天の野村監督ですが、
交流戦好調で、ぼやきも少なかったようです。
ということは歴史街道も
ぼやくことがないほど非常にいい調子なのか、
それともぼやきがでないほど・・・
いやいや、きっといい調子なんですよね、編集長?(村)

2006年06月19日

理想の日本代表

昨夜は多くの方が、ワールドカップのクロアチア戦をご覧になったことと思います。
川口のスーパーセーブなどもありましたが、
やっぱり気になるのは得点が入らないこと。
ではどうすれば、点が入るようになるんでしょうね。
それには、今の人材だけでは足りません。
過去の歴史上の人物たちで、理想のチームをつくりあげるくらいしなければ、
ブラジルに勝つことなどできないのではないでしょうか。


そこで、私が考えてみた、理想の日本代表がこちらです。

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2006年06月15日

会津武士とカレーライス

現在発売中の「会津武士道」の特集で採り上げている
山川健次郎という人物がいます。
旧会津藩士でありながら逆境に耐え、アメリカに留学して物理を学び、
帰国後、教育者となって、東京帝国大学総長にまでなった人物です。
さて、この山川健次郎、実は
「初めてカレーライスを食べた日本人」
であったことはご存じでしょうか。


アメリカへ渡る船の中、海に縁などない会津藩士だった16歳の健次郎は、
激しい船酔いに襲われます。
しかも、船では出されるのは肉料理ばかり。
彼はこれまで、肉など食べたこともなく、手をつけられなかったといいます。
船酔いと、食事不足で、健次郎の体調は限界に達していました。
そこで、彼は船内の食堂で、「カレーライス」なるものを目にします。
上に何やら怪しげなものがかかっているが、ともかくその下にごはんがある!
彼は意を決してカレーライスを注文。
かくして彼は、栄えある「日本人で初めてカレーライスを食べた男」となったのです。
しかし一説には、彼はカレーをよけてごはんだけ食べていた、ともいわれています。
また、彼の体調を心配した船医があんずの砂糖漬けを持ってきてくれたことから、
その後の航海中、彼はその砂糖漬けをおかずにして、
カレーライスのライスのみを食べていたそうです。
どうも、健次郎少年の口にはカレーは合わなかったようで。


この話、特集のコラムとして、誌面で掲載するほどの話でもありませんでしたので、
こちらにひっそりと紹介する次第です。
私自身は、こういうちょっとしたこぼれ話も好きなんですけどね。(横)

2006年06月12日

北鎌倉のアジサイ寺にいってきました。

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梅雨の季節。毎日、雨模様でうっとうしい季節が続きますね。

しかし、梅雨の季節ならではの楽しみもあるもの。

紫陽花(アジサイ)寺として有名な北鎌倉の明月院にいってきました。

三門を抜けて、しずしずと境内に入っていくと、
迷路のような道の両脇を、紫陽花が満開でした。

さらに、裏のお庭には菖蒲(ショウブ)が植えられ、
小川にはミズスマシやオタマジャクシが泳いでいました。

土がぬかるんでいるため、
サンダル(ミュールというのでしょうか?)履きの女性のかかとが、
ズブズブと泥にはまっていきます。

小川の上流に向けて階段がつづき、上っていくと、
行き止まり。あとは、林があるだけです。

ツレが「この先には何があるの?」と聞くので、
「神さまがいるんだよ」と答えておきました。

北鎌倉には、ほかにも、円覚寺、東慶寺など、
歴史があって紫陽花がキレイなお寺があり、
雨足が弱くなってきたころをみはからって、
お出かけしてみるのもいいかもしれません。(永)

2006年05月18日

毎朝、すれ違う女性

最近、通勤途中でほぼ毎朝すれ違う女性のことが気になっています。
というのも、その女性がいつも歩きながら、
怖いくらい食い入るように文庫本を読んでいるからです。
最初は、危なくないのかな、と思っていたのですが、
彼女はブックカバーをつけていないので、
次第に読んでいる本が気になるようになってきました。


だいたい、一週間で一冊を読み終えるペースのようですが、
浅田次郎の『プリズンホテル』に始まり、
奥田英朗の『イン・ザ・プール』、
荻原浩の『神様からひと言』と、
読んでいる真剣な表情からはイメージが違うのですが、
どうもユーモアがありながら、最後にほろりとさせる小説を好んでいるようです。


しかし、今度の本の選択に私は少々驚かされました。
というのも、彼女が熱心に読んでいるのは、
「歴史街道」にもよくご登場いただく、宮本昌孝先生の『剣豪将軍義輝』だったからです。
私自身、好きな本ということもあり、
こんな若い女性が歴史小説も読むんだ、
と、歴史雑誌の編集に携わる身としては、少し嬉しくもなりました。


そんなふうにすれ違うだけの日々が続いていたのですが、
今朝、彼女に声をかけようかどうか、悩む事態が生じてしまいました。
向こうは私のことなど全然意識していないでしょうし、
突然、声をかけたりしたら、「変な人」といわれるのもわかっています。
ひょっとしたら、大きなおせっかいかもしれません。
でも、同じ「本読み」として、どうしてもひと言忠告したくなったのです。
というのも……

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2006年05月11日

映画好き?

突然ですが、みなさんは小津安二郎の映画をご覧になったことがありますか?


小津安二郎といえば、日本を代表する映画監督です。
国内外の若手映画監督にも彼を敬愛している人は多く、
彼へのオマージュとしての作品を制作している監督もいるほどです。
また2003年には生誕100周年を迎え、各地でもイベントが催されたというので、
それが記憶に新しい方もいらっしゃるかもしれません。


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2006年04月26日

マオ?

毛沢東を描いた『マオ』という本が売れているようです。
私も気になって、読みたいと思っているのですが、
あの分厚さで上下巻ですから、なかなか手が出せないでいます。
そこで、読書家である友人に聞いてみました。
「マオ、読んだ?」と。


するとその友人は、
「うーん、俺、別にスケートに興味ないからなあ」
「?」
「でも、15歳で本を出すってすごいよね。ほとんど写真集みたいのかもしれないけど」
「??」


ここでようやくわかりました。
彼が言っているのは、フィギュアスケートの「浅田真央」選手のことであると。
知りませんでしたが、実は彼女も本を出しているようなのです。
歴史街道編集部内では、「マオ」といったら一も二もなく毛沢東のことですが、
世間一般では、浅田真央選手のほうが思い浮かぶのですね。
少し、世間とのずれを感じた私でした。
でも、このブログを読まれるような方ならば、マオといえば毛沢東ですよね。(横)

2006年04月24日

歴史街道ランチ小景

歴史街道編集部のランチタイムについて書きます。
日ごろ、男性陣は近くのお店に入って昼食を取るのですが、
毎月、制作段階の大詰めになってくると忙しいので、
手早く食べられる弁当にすることがしばしばあります。
そのため、一番下っ端の私が、弁当の買い出しに走ることになります。
この買い出し、実はなかなか気が抜けない仕事なのです。
当初「みんな同じほうが平等でいいだろう」と考えて
全部同じ弁当にしていたのですが、
ある日、「これ、きのうと一緒だ・・・」と先輩がつぶやいたのです。
これには参りました。大事な仕事で失敗したような気分になりました。
非常に忘れっぽい私は、対応策として全て違う弁当を買うようにしました。
しかし、これがまた問題なのです。
当然の如く、誰がどの弁当を選ぶかという問題に直面します。
買ってきた弁当の名前を私が読み上げるのですが、
編集長はいつも「何でもいいよ」という調子なので、
編集長と私以外の先輩方が先に選びます。
残った二つの中から私が選ぶのですが、小心者の私は、
「自分がこっちにしたら編集長はあっちで、あっちにしたらこっちが編集長で・・・」
と勝手に右往左往してしまうのでした。
次の弁当の時期まであと半月・・・
編集長が「じゃ、これ」と弁当を選んでくれることを私は密かに願っています。(村)

2006年04月20日

「ダントツ」の罠

こんな表現をある本で見かけて、昔の失敗を思い出しました。
「私はその試験でダントツのトップだった」
さて、私も昔、同じ間違いをしたのですが、
どこが間違っているかわかりますでしょうか。
知っている人には当たり前かもしれませんが…。


まだ新人編集者だった頃、「ダントツの1位」という文字が入った文章から、
スペースの問題で、2文字以上減らす必要に迫られたことがありました。
なら、「ダントツ」を漢字にすれば、2文字減るんじゃないか。
そう思った私は、こう書きました。
「段突」
私はダントツとは、段違いに突出していることだと思っていたのです。
しかし、それを見た先輩から「おかしい」と言われました。
「断トツ」という表現は見たことがある。
断然、飛び出ているのだから、あえて漢字にするなら、こうではないかと。
「断凸」


混乱した私は辞書を引くことにしました。
(最初から引いておかないから、こういう混乱が起こるのですね)
すると、そこには全く予想もしなかった答えがあったのです。

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2006年04月19日

新庄選手に似ているある歴史上の人物

昨日、日本ハムファイターズの新庄剛志選手が引退を表明しました。
私は阪神ファンということもあり、昔から新庄選手の動向には注目してきたのですが、
今回もまた、突然の発表に驚かされました。
新庄選手はその突飛な言動から、しばしば「宇宙人」と揶揄されるように、
日本人としてはかなり特異な存在に見えます。
ただ、だからといって新庄選手のことを悪く言う人は少ないのではないでしょうか。
一方、元ライブドア社長の堀江氏も「従来の日本人とは違う」という意味では
新庄選手と同じでしたが、昔からどうも素直に応援する気になれませんでした。
では、何が違うのでしょうか。


私は、阪神時代やメジャーリーグ時代よりも、今の新庄選手のほうが好きです。
彼の行動が「ファンを喜ばせる」という点で筋が通っているように見えるからです。
それは、引退表明での「開幕戦で球場が満員になってオレの夢がかなった」
という言葉にも表われているでしょう。


また、一見めちゃめちゃに見える彼の言動ですが、
メジャーリーグを自由契約になった時、
初めて声をかけてきてくれた日本ハムファイターズに入団したように、
筋を通すべきところはきちんと通しています。
その年は、日本ハムが東京から札幌へと本拠地を移す時でしたが、
新しい挑戦に新庄選手の力を必要としている、という球団側の言葉に、
まさに彼は「意気に感じ」、入団を決意したのでしょう。


さて、そんな新庄選手は、私は歴史上のある人物に似ていると思っています。
それは……

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2006年04月18日

日露戦争後の人気軍人投票、その意外な顔ぶれは?

現代と昔では、歴史上の人物に対する評価が180度変わる場合があります。
また時代の流れとともに、やがて忘れ去られていく人物もいるようです。

以下は、日露戦争後の明治46年にある雑誌に掲載された、読者による「海陸軍人」の人気投票です。どれくらいの軍人の名前がお分かりになるでしょうか。

1位・乃木希典
2位・東郷平八郎
3位・郡司成忠
4位・財部彪
5位・福島安正
6位・長谷川好道
7位・中村覚
8位・島村速雄
9位・瓜生外吉
10位・山本権兵衛
『冒険世界』明治43年6月号より

日露戦争直後の投票ということで、日本海海戦の敵前ターンで有名な連合艦隊司令長官・東郷平八郎は言うに及ばず、戦争で殊勲を挙げた人物が多くランクインされています。

意外なのは、乃木希典が1位であること。乃木というと、今ではすっかり愚将のイメージが定着してしまいましたが(?)、戦前までは西郷隆盛と伝記の数を競うほど国民に人気があった人であり、少なくとも明治には大スターであったことは間違いありません。

また、北千島の開拓者・郡司成忠やシベリア単騎横断の福島安正など、明治はまだまだ知られざる偉人の宝庫のようです。

いずれ、歴史街道でも取り上げられたらいいなと思っています。        (永)  

2006年04月10日

おめでとう!

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8日、歴史街道の編集部員の結婚式があり、部員一同、出席してまいりました。
この日ばかりはみんな仕事を忘れるほど、楽しい結婚式でした。
なかなか早く家に帰れる日は少ないかもしれませんが、これからもがんばってください。
はたして、「一豊と千代」のような夫婦になるのか、はたまた「利家とまつ」か。
なにはともあれ、おめでとうございます。

2006年04月07日

実をつける山吹と太田道灌

IMG_3624山吹.jpg

通勤途中の道で見かけた山吹です。
山吹で有名な歴史上の人物といえば、太田道灌ですね。


ある日、鷹狩りに出かけた先で雨に降られた道灌は、
近くにあった家に駆け込み、「蓑を貸してくれ」と声をかけます。
家から出てきたのは、思いもよらず幼い少女。
その少女が差し出したのは、なぜか山吹の花一輪でした。
意味がわからない道灌は、
「花が欲しいのではない」と怒って、雨の中を帰ってしまったそうです。


城に帰った道灌は、家臣にそのことを話します。
するとその家臣は、
「その娘は、蓑がない恥ずかしさを山吹に例えたのではないでしょうか」
というのです。
「後拾遺集に醍醐天皇の皇子・中務卿兼明親王が詠まれた歌があります。
【七重八重花は咲けども山吹の み(実)のひとつだになきぞかなしき】
山吹が実の一つもつけないことと、蓑一つも家にないことをかけて表現したのでしょう」
道灌はこれに感じ入り、以後、歌道に多いに精進したということです。


私も山吹を見るたびにこの話を思い出していたのですが、
ある日、とんでもないことに気づいたのです……


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2006年04月06日

5月号について

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「歴史街道」編集部かわら版にようこそいらっしゃいました。
写真は編集部のすぐ近くの千鳥が淵の桜です。
残念ながら、昨日の雨でずいぶん散ってしまいました。
水面に、桜の花びらのラインができているのがわかりますでしょうか。


さて、まずは、本日発売の5月号について少しご案内を。
総力特集は「軍師・島左近」。
石田三成に仕え、関ケ原の戦いを画策したといわれる伝説の軍師です。
「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」
という歌で有名ですね。
ある伝承では、島左近は、三成の必死の説得により仕官を受け入れ、
1万5千石の俸禄で召し抱えられます。
これは、当時の三成の禄高4万石のうちの4割近くを与えられるという
破格の待遇でした。この時より、左近は三成のために働くことを誓います。
そして豊臣秀吉亡き後、天下をうかがい始めた家康を牽制するために、
左近は「関ケ原」を画策しますが・・・。
老獪な家康に対抗するには、三成はあまりにも純粋すぎました。
しかし左近は三成のその純粋さを愛し、最後は満身創痍になりながら
獅子奮迅の活躍を見せます。類稀な力量を持ちながら、
まさに「士は己を知る者のために死す」という言葉を体現したような、
信じる人のためにすべてをかけた男の生き方を描いています。
ぜひ、ご一読をお願いいたします。(横)