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2009年10月14日

臨水

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岡豊城周辺の取材を終えた後、高知市街に戻り、
遅いお昼を土佐藩主山内家邸跡に建つ
臨水(りんすい)で頂きました。
創業80余年の由緒ある料亭でした。
かつおのたたきと、てんぷらがついた食事膳2,100円は、
東京人の感覚ではリーズナブルといえましょう。
部屋からみえる鏡川ではシジミをとっている人がいました。


食事を終えたところで、美人女将が登場。

「明治・大正の建物はたくさんあれど、
 昭和22年の終戦直後に(臨水を)建てた
 ところが土佐人の心意気でしょう」
「先日まで、台湾の李登輝さんがいらして
 いたのよ。坂本龍馬の船中八策の大ファン
 なんですって」

館内も案内していただき、ケヤキの欄干に
「山内一豊公お国入り由来記」が彫り込まれているお部屋も
見せていただきました。
隣接したお部屋には「忠臣蔵」が掘り込まれた欄干もあったのですが、
なぜ高知で「忠臣蔵」?
冗談なのか、本当なのか、その答えを女将から聞いた時は、
さずがに絶句しましたが、それもよい思い出です。
(気になる人は、直接、臨水にいって、女将に聞いてみてください)。

その後、龍馬生まれたまち記念館にいって、龍馬の生涯のおさらいです。
それまで知らなかったのですが、龍馬は比較的裕福な家の生まれだったのですね。
それがあの屈託のない龍馬の人柄につながっていたのかもしれません。

来年は大河ドラマ「龍馬伝」の放映が予定されており、
臨水をあとにする時、女将から「高知をよろしくお願いします」といわれました。
こちらこそ、「歴史街道をお願いします」という感じでしたが。

一領具足の末裔である郷士たちが、
再び幕末の動乱の世に踊り出て行く。
さらにその動きは、明治でも終わりませんでした。
「自由は土佐の山間より」
そこに土佐の歴史のつきぬ面白さがあるのだと、
この取材旅行で感じました。

ブログ・長宗我部編はこれにてひとまず完結といたします。
ご愛読ありがとうございました。
(永)

2009年10月13日

土佐国分寺金堂にて

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岡豊別宮八幡宮の後は、
土佐国分寺へ。
金堂は永禄元年(1558)、
元親による再建です。
土佐神社とともに、元親の功績を
伝える文化財として、評価の高い史跡です。

戦国大名の居城跡といっても、
開発が進んで往時を偲ぶのが難しいところも多い中、
岡豊城跡とその周辺は、いまも当時の風景を感じさせてくれる
場所で楽しめました。つづく…。(永)

2009年10月09日

岡豊別宮八幡宮にて

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岡豊城の撮影が終わった後は、
その北東、
岡豊別宮(べっく)八幡宮に
向かいました。
出陣に際し、元親が常に戦勝を
祈願した八幡宮で、
長宗我部ゆかりの品を多く所蔵
していたそうですが、大正年間の
大火で大半が焼失してしまった
そうです。
神殿は石段を登った山頂に
あるのですが、
入り口がわかりにくい上に、
石段がとてつもなく長く、この日の
体力の80%はここで費やして
しまったような気がしました。

不思議なことに山頂には
クルマの車輪跡があり、
石段とは別にクルマで
来られるルートが存在するのかもしれません??

ちなみに神職をつとめた谷家の有名な子孫として、
谷干城(たてき)がいます。

土佐藩士の谷干城は、龍馬暗殺の際は現場にかけつけて
重傷の中岡慎太郎から証言を聞き、西南戦争時には熊本
鎮台司令官として、薩軍の猛攻を凌いだ人物です。

その熊本籠城の際、干城の夫人の玖満子(くまこ)は
塀を乗り越えておはぎをつくり、将兵を慰労したといいます。

歴女ならぬ烈女ですね。

剛毅な谷干城もこれだけは恐れたものとして、
天子と地震、そしてもう一つ挙げたそうですが、
何だと思われますか。

答えはいわずもがなですよね。

この逸話を知ったとき、私は一人で爆笑するとともに、
思わずアズマの方向を見て背筋がのびる気がしました。(永)

2009年10月08日

岡豊城を望む

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土佐神社の見学を終わった後は、
再び岡豊城へ。
全景を撮影するべく付近をウロウロし、
おさめたのがこの写真です。
手前を流れるのは天然の外堀をなした国分川で、
浦戸湾に注ぎます。
近年、堤防整備の際に船つき場が見つかったとか。
浦戸湾に揚陸された物資を搬送していたのでしょうか。
岡豊城の上から見る香長平野もよい眺めでしたが、
逆に国分川から見上げる岡豊城も、
(かなりの想像力を要しつつも)
戦国のロマンを感じさせました。つづく…(永)

2009年10月07日

土佐神社にて②

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土佐取材のつづきです。

土佐神社では、突然の訪問だったにもかかわらず、
禰宜の方にていねいにご対応をいただき、
神社と長宗我部元親の由来について、
説明いただきました。

土佐神社は元親の凱旋報告の場であると同時に、
軍評定の場でもあったそうです。

400年の時を経て、いま同じ場所に立っている…。
そう思うと、じつに感慨深いものがありました。

撮影中、うら若き女性4人組が表われ、
興味深そうに見学をしておりました。
長宗我部人気の広がりを実感しました。

(写真:手前の女性が見つめる視線の先には、
元親の肖像があります)

つづく…。(永)

2009年10月05日

土佐神社にて

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土佐2日目のカメラ撮影日も快晴でした。
前日の酷使がいけなかったのか、
カメラマンの近戸さんのクルマがパンク
していたアクシデントがありましたが、
近くのガススタンドですぐにリカバーします。
最初に向かったのは、土佐国の一ノ宮・土佐神社。
本殿、幣殿、拝殿は長宗我部元親の再興、
鳥居、楼門、鼓楼は二代藩主山内忠義による増築という、
由緒ある神社です。
歴史の匂いがしました(byワタナベスナフ氏)。

さて、今回の撮影で困ったのは、やぶ蚊の大群に襲われたこと。
長袖を着ていくべきだったのですが、日中気温が上がりすぎて無理。

夏の取材の際は虫除けスプレーを、といつも思いながら、
今回も忘れてしまいました。


とくに近戸さんはカメラのシャッターを押すまで動けないので、
蚊に刺されまくっていました。

今回は土日を使っての撮影取材だったため、
近戸さんの娘さんにもさびしい思いをさせてしまったようです。
9月にはシルバーウィークがあった関係で、
日程的にかなりのハードスケジュール
になってしまいました。

関係者の妻子を泣かせながら、「歴史街道」11月号はできていきました。
この場をかりて、お詫び申し上げます。

つづく…。(永)

2009年10月02日

安芸氏の菩提寺・浄貞寺にて

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高知市浦戸周辺の史跡めぐりが
ひと通り終わった後、
浦戸大橋を渡り、安芸へと向かいました。
桂浜から安芸城までは、
クルマで1時間程度。
前日と同じく安芸城遠景を
カメラマンの近戸さんに撮影して
もらった後、安芸氏の菩提寺・浄貞寺へ。


そこには元親に敗れ、自害した安芸国虎の墓のほか、
国虎の「太刀洗いの池」がありました。
お寺全体に、なんとなく敗者の悲しみを感じさせる雰囲気が漂っており、
それまで快晴だった天候が急に崩れたのも印象に残りました。
本日の撮影はこれにて終了。

夜は、近戸さんと大衆ホルモン酒場「炭丸」というお店に。
昭和の名曲が流れるレトロな雰囲気にひかれ、
ふらりと入ったお店でしたが、おいしくて満足でした。
マルチュウなるものを初めて食べましたが、
いまだにどこの部位かわかりません…。

その後、ホテルに戻ってノートパソコンで原稿書き。
電話もならず、密室空間の中、いつもより能率が上がった
気がました(これを「ホテル3倍の法則」と名づることに)。
聞けば、近戸さんもホテルにパソコンを借りて、
深夜まで写真の整理をされていたとか。
今回は、超タイトな日程でお仕事をお願いしてしまい、
あらためて恐縮してしまいました。
つづく…。(永)

2009年10月01日

龍馬と元親

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石丸神社の見学が終わった後は、
浦戸城天守跡や坂本龍馬の
銅像が建つ
桂浜公園をめぐりました
(駐車代400円)。
太平洋を見つめる龍馬像の周りにはたくさんの人で溢れ、
皆うれしそうな顔で
記念撮影していました。

龍馬は浦戸湾の入り口・
種崎方面に親戚がおり、
少年時代から
たびたび訪れていたそうです。

浦戸湾で早くから海と異国船を見て育った龍馬は、
いつの日か船体を
率いて外洋へ
と乗り出していく日々を、
夢見ていたのでしょう。


ちなみに、幕末の英外交官アーネスト・サトウは、
浦戸湾の松並木や砂浜を見て、
セイロン島の港、ポアン・ド・ガル湾を思い起こしたと、
著書に記したそうです。

浦戸湾の重要性は、戦国時代も同じで、
元親の初陣となった永禄3年(1560)の
本山氏との戦いも、もとはといえば、
浦戸湾口の海上支配権をめぐって生起したものでした。

やがて元親は海運を通じて、土佐国と
他国との交易を積極的に図り、国を富ませていこうと考えます。

龍馬と元親。
二人に共通するのは、海の先にある何かを望む、
そんな土佐人ならではのDNAなのかもしれません。
つづく…。

参考:(財)高知観光コンベンション協会「ゆるり 土佐時間」

2009年09月30日

「忠魂不滅」! 一領具足たちの魂を鎮める

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元親銅像の見学を終えた後、前日と同様、再び浦戸城跡を目指しました。
途中、海岸沿いに建つのが石丸神社です。
関ケ原合戦後、西軍に参加した
長宗我部盛親は土佐一国を召し上げられ、
居城の浦戸城を明け渡すように申しつけられます。
しかし、一領具足たちは「せめて土佐の一郡でも残してほしい」と、
浦戸城に立てこもったのでした。
世にいう浦戸一揆です。
石丸神社は、戦いに敗れた一領具足たち273人の魂を鎮めようとして
建てられた神社で、六体地蔵や一領具足の碑(いしぶみ)、
土井晩翠(どいばんすい)の詩碑(写真です)がありました。
土井晩翠は、滝廉太郎の作曲で有名な「荒城の月」などで知られる詩人です。
詩碑の「忠魂不滅」の4文字がしばし心から離れず、この地を離れがたくさせました。
つづく…。(永)

2009年09月29日

元親初陣の像

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若宮八幡宮から海側に少し歩くと、
勇壮な長宗我部元親初陣の像が
建っておりました。
平成11年(1999)5月、元親没後400年を記念して建立されたものだそうです。

永禄3年(1560)、元親は初陣の際、若宮八幡宮社頭のこの地に
陣を張り、必勝を祈願したのでした。

時に、元親22歳。祖父兼序(かねつぐ)のカタキでもある宿敵本山氏との
戦いで、敵兵2人を槍で突き伏せるなど、初陣らしからぬ見事な働きをした
といいます。

この戦い後、時を経ずして父国親が亡くなるのですが、大きな混乱もなく
元親が軍を掌握できたのは、この初陣の際の働きで、カリスマ性を高めて
いたからかもしれない。そんなことを考えました。
さて、銅像広場には、“元親公への想い綴りノート”があり、参考までに
閲覧させていただくと…全国各県から訪れていることに、改めて驚かされました。
やはり「戦国BASARA」の影響が強いようです。
かくいう私も、ノートに次のようにメモを残させていただきました。
「9月X日 歴史街道編集部来る。10月6日、総力特集・長宗我部元親と盛親発売!」
これではまるっきり宣伝ですが、誰か見てくれた人はいるかな…。つづく…。(永) 

2009年09月28日

若宮八幡宮にて

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雪蹊寺周辺の散策が終わった後は、若宮八幡宮へ向かいました。

永禄3年(1560)、長宗我部元親が初陣以来、崇敬し続けた神社ですが、
こんな逸話も伝わっています。

天正14年(1568)、島津攻めで長宗我部軍が豊後へ出陣した際、
旗の笠標が鳥居の冠木(かぶき)あたりにぶつかり、千切れてしまいました。
元親は凶兆だとして、これを気遣ったのですが、戸次川の戦いで、
嫡男信親を失ってしまうのです。
その後、鳥居は海中に投げ捨てられたといいます。
元親の心の痛みが伝わってきそうな逸話です…。
現在、参道には、七鳩酢草(かたばみ)の旗が風にたなびいており、
長宗我部ゆかりの神社であることを思いました。つづく…(永)

2009年09月25日

天誅組に加わった長宗我部一族の子孫

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また、雪蹊寺の西には、国事で亡くなった方を弔う
忠魂墓地があり、その中でもひと際目立っていたのが、
島義親の墓碑でした。
義親は長宗我部四郎ともいい、脱藩後は
浪間(なみま)と称しました。
遠祖は長宗我部氏の一族に連なるそうです
(それ以上、詳しいことはわかりません)。
義親は、文久3年(1863)、藩命で上京。
三条実美の衛士となり、脱藩後、
天誅組の大和挙兵に参加しましたが敗れ、
同志と中山忠光を擁して長州の三田尻に逃れ、忠勇隊に入りました。
元治元年(1864)の禁門の変では、その忠勇隊に属して戦ったそうです。

その後、諸藩への遊説を計画して、山陰道に入り、再び京を目指した
ところ、美作国土居で賊と誤解され、同志と刺し違えて死んだそうです。
坂本龍馬もその死を惜しんだとか。
立派な墓碑に島義親に対する土佐人の追慕の念を思いました。つづく…。(永)

参考:「明治維新人名辞典」(吉川弘文館)他

2009年09月24日

元親の菩提寺・雪蹊寺にて

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土佐取材2日目の最初に訪れた場所は、雪蹊寺(せっけいじ)です。
長宗我部元親の菩提寺であり、嫡男・信墓の墓所も
この寺にあります。

天正14年(1586)、島津攻めの際、戸次川の戦いで戦死した
信親の最期は、悲劇的なものでした。
功をはやる秀吉の軍監・仙石権兵衛秀久は、島津の大軍を相手に
無謀な渡河作戦を敢行し、惨敗を喫してしまったのです。
この時、長宗我部信親は1000の土佐武士を率いていましたが、
そのうち700余がともに戦死しました。
負傷者も相当いたでしょうから、まさに全滅です。

一方、元親は秀吉から拝領した名馬・内記黒(ないきぐろ)に乗って、
窮地を脱したといわれます。
このエピソードは、「三国志」における曹操の愛馬・絶影(ぜつえい)、
または、劉備の同じく的盧(てきろ)を想起させます。
あるいは、乱戦の中、信親の最後の思いが天に通じ、内記黒を奔らせたのでしょうか。

ちなみに、雪蹊寺に隣接して、明治になって一時、雪蹊寺が廃寺になった時、
元親を祭神として建てられた秦(はだ)神社がありました。
また、その秦神社の裏手の山が、元親が初陣の際、長宗我部氏が
本山氏から奪った長浜城跡だったりと、見どころがいっぱいの地でした。つづく…。(永)


2009年09月19日

かの有名なはりまや橋

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安芸駅から電車で高知駅まで戻った後、ホテルにチェック・イン。その後、街をぶらぶら歩きしようと思っていたのですが、すでに辺りは暗く、やむなくここだけでも見ておこうと向かったのが、はりまや橋。江戸時代に、堀川を挟んで商売を行なっていた「播磨屋」と「櫃屋」が、私設の橋を架けたことが由来といわれています。現在は、小さな公園として整備されたところに、復元された橋が架かっているだけでした。それでも観光客と思しき人が嬉しそうに記念撮影をしていきます。
その晩、はるばる滋賀から撮影のためにクルマで来てくださったカメラマンの近戸さんと合流。打ち合わせ用に私がデジカメで撮った写真を見せたところ、「天気がよすぎますね」との意外なお言葉。昼間は光が強すぎで、おそらく寺社などは細部が影で隠れてしまうだろう、とのことでした。かくして明朝、6時45分スタートとなったのです。つづく…。(永)

2009年09月18日

岩崎弥太郎生家の庭・日本列島の石組

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2泊3日の土佐取材の初日、最後に選んだのは、三菱グループの創始者として知られる岩崎弥太郎の生家。資料館からは割りと近かったけれど、もし安芸駅から直接自転車で向かうとなると、30分弱はかかるかと思われます。途中、なぜか電柱に激突するアクシデントに見舞われながら、へとへとになって目的地に到着。辺り一面に田畑が広がるのどかな風景の中に、岩崎弥太郎の生家はありました。説明板によれば、岩崎弥太郎の先祖はなんと安芸国虎の家臣だったようで、長宗我部家の安芸支配の後は、長宗我部家に仕えたそうです。
ところで、弥太郎の生家の庭には、幼少の弥太郎が将来の雄飛を夢見て遊んだという、日本列島の石組みが残されていました。まさに「栴檀は双葉より芳し」という、ことわざどおりの少年だったようです。
その後、駅で借りた自転車の返却期限である18時に間に合わせるべく、猛烈な勢いでペダルを漕ぎ、安芸駅に戻ったのでした。つづく…。(永)

2009年09月17日

安芸城跡

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岡豊(おこう)城の見学を終えた後、後免(ごめん)駅に戻り、次は土佐くろしお鉄道に乗って安芸(あき)駅へ向かいました(所要時間48分、890円)。駅では自転車が無料で借りられ、たいへんありがたかったものの、これまで快晴だった天気が一転し、小雨が降ってきました。めざす安芸城跡までは、自転車(全速力)に乗って10分ぐらいの距離でしたが、風雨は強くなる一方で、難儀いたしました。城内の安芸市立歴史民俗資料館に着いた頃は、すでに16時30分。資料館は17時で閉まるので、急いで見学を済ませます(大人300円)。

戦国時代、安芸城は長宗我部元親と争った安芸国虎の居城でしたが、関ケ原合戦後、山内家の重臣・五島氏の居館とされました。資料館には、山内一豊に従った五島吉兵衛が一豊の顔から抜いたという、あの有名な矢じりが展示されていました(痛そうでした)。

その後、安芸城の遠景を写真におさめるのはどこがよいか、自転車で辺りを散策。近くの天神坊橋を通り、対岸の公園の辺りから安芸城を見るのがベストと判断、デジカメのシャッターを押します(手前が安芸川になります)。岡豊城と違って安芸城は天然の要害というよりも、小さな山に築かれていたようです。つづく…。(永)

2009年09月16日

岡豊城より「土佐のまほろば」を眺めて

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浦戸城見学が終わった後、桂浜公園で龍馬の銅像を見たりして、タクシーで高知駅へ。そして高知駅でJR土讃線に乗り、後免駅で下車(所要時間20分、260円)。そこから再びタクシーに乗って、長宗我部家歴代の牙城、岡豊(おこう)城に向かいました。

岡豊城の二ノ段からは香長平野が見渡せるのですが、この眺めは昔から「土佐のまほろば」と呼ばれる美しい景色です。まほろばとは、もっともすばらしい国という意味。付近には、国親・元親が建てた国分寺金堂をはじめ、多数の史跡が残されており、悠久の歴史を感じさせてくれました。元親もこの風景を見て、天下への夢を膨らませていたのかもしれません。

山の中腹には、立派な高知県立歴史民俗資料館(大人450円)があり、充実した展示内容に大満足でした。さすが歴史のくに、高知!

(ちなみに館内の長宗我部の表記は、ちょうそかべ ではなく、ちょうそがべ となっておりました)


後日、宅間館長にもご面談をいただき、私の素朴な質問の嵐にもかかわらず、ていねいにご回答くださって、恐縮のかぎりでした。今後の長宗我部研究は、いわゆる軍記物によらない発給文書(もんじょ)などの史料による精査が必要になってくるとのことでした。つづく…(永)


2009年09月15日

浦戸城天守跡

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さて肝心の浦戸城天守跡への入り口は、桂浜荘そばの階段から歩いていくことができます。天守部分は思ったより狭く、今では小さな祠があるのみでした。
しかし、説明板によれば、往時はここに三層の天守が建っていたとのことで、驚きました。また、お城の斜面には石垣の一部が残っているそうですが、この日は確認できませんでした。
天正19年(1591)頃、元親がここに拠点を移してから、関ケ原合戦後に盛親が土佐一国を召し上げられてしまうまで、ここは土佐の政治と軍事の中心だったのです。つづく…。(永)

2009年09月14日

浦戸大橋を望む

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ところで、土佐取材は2泊3日の予定だったのですが、
初日の目的は、その日の夜に合流予定のカメラマン氏との打ち合わせに備えて、
ビューポイントの下見をできるだけしておくことでした。

そんなことで高知城をゆっくり見学している暇はなく、
龍馬の銅像で有名な桂浜公園の山頂にある、
浦戸城あとに向かうことにしました。

(バスで行くには時間がかかりすぎるので、タクシーに乗りました)

土佐湾に面した道路を走行中、桂浜公園の山頂に
国民宿舎の桂浜荘が見えてきました。

運転手さんが「あそこが浦戸城の本丸があったところだよ」と
教えてくれます。さすが地元の歴史にお詳しかった。

山頂には桂浜荘と隣接して、坂本龍馬記念館がありました(大人500円)。

写真は、その記念館の屋上から、浦戸大橋方面を撮影したものです。

橋下は浦戸湾口にあたり、長宗我部水軍の錬兵が行なわれたところだそうです。

元親・盛親父子も、その風景をこの辺りから見ていたのかもしれない…
ということを、長曾我部最高委員会の総大将・右衛門太郎さんから
聞き及んでいたため、感慨もひとしおでした。
歴史のロマンを感じます。

お昼は桂浜荘でいただきました。

郷土料理もたくさんあったのですが、旅先では、時に
カツ丼とかカレーライスを食べたくなってしまことがあり、
結局、カツ丼をいただいた次第です。つづく…。(永)


2009年09月13日

高知城内の一領具足の像

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高知龍馬空港に着いた後、バスで高知市街のはりやま橋へ(700円)。
そこから徒歩7、8分歩くと、高知城です。
(なお、市街には東西南北に電鉄が走っており、それに乗ってもよかったのかもしれません)

高知城は関ケ原合戦後、掛川から入国した山内一豊が築いた城です。
じつは長宗我部元親もこの地に居城を置こうとしたのですが、
潮江川(鏡川)や江ノ口川の氾濫に悩まされ、断念した経緯がありました。

近年、その元親時代のものと見られる石垣が発見されているそうです。

さて城内には、一領具足の像がありました。

「一領具足」とは、戦国期の長宗我部氏を描いた『土佐物語』によれば、
「田に出る時にも、槍の柄に草鞋(わらじ)・兵糧をくくり付け、畦に立て置き、すは戦といえば鎌・鍬を投げ捨てて、馬一匹で走り回った命知らずの野武士である」
と記されています。

また城内の説明板には、「長宗我部元親の活躍に一領具足の働きは大きい。信頼も厚く、阿波平定の折り、元親が家老と一領具足をそれぞれ別室に集めて戦略を述べさせ、一領具足の意見を採用したというエピソードも伝わっている」とありました。

長宗我部といえば、この一領具足なのですが、あとで彼らの思わぬ悲劇を知ることになりました。つづく…。(永)


2009年09月11日

特集「長宗我部元親と盛親」制作中!

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「歴史街道」11月号(10月6日発売)
の特集は、
10月号の次号予告どおり、
「長宗我部元親と盛親」でございます。

長宗我部家に関しては、学生時代に読んだ
司馬さんの「夏草の賦」と「戦雲の夢」以外に
ほとんど知識がない私ですが、
2008年2月号で
「長宗我部元親の野望」という小さな特集を
組んだことがあります。
(「戦雲の夢」が好きという方は、
本当にたくさん
 いらっしゃいますね。後輩のM氏もそうですが)


しかし今回は総力特集ということで、
より深くアニキのリアルな魅力を探るべく、
いってまいりました、土佐に…。

8:35羽田発の高知龍馬空港行きに乗って09:55着。

あっという間です。

空港では早速、龍馬像が迎えてくれました。

記念撮影モードの方々が何組かむらがって、
龍馬人気のすごさを改めて痛感しました。

でも今回は、長宗我部です。

本ブログでは、発売まで、体力と気力のつづく限り、
たびのレポートをアップして参りたいと思っております。
つづく…(永)

2009年04月24日

ひこにゃん

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みなさんご存じ、ひこにゃんです。

正直、今まではそこまで関心がなかったのですが、確かにかわいい…!
思わず激写してしまいました。

この人だかりも、納得でした。(水)

2009年04月21日

銅像クイズ第五弾! 私は誰でしょう

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佐和山城から下ってきた編集部一行の足はとまり… (永)

2009年04月20日

戦え! 若者

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ある日の新人編集部員の勇姿。某・山城にて。
読者が求む「情報」をつかむため、日夜苦闘が続きます。

2009年02月06日

難易度高し! 銅像クイズ

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ある明治の元勲の足許です。
写真ではわかりにくいですが、
そこに馬と御者がいます。
さてこれは誰の銅像の足許の写真でしょうか?


ヒント:九州出身です
(永)

2008年02月19日

「歴史街道」真珠湾編(最終回)

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昨年来、だらだらと書き続けてきた「真珠湾編」も
今回でひとまず最後とさせていただきます。

さて、アリゾナ記念館に続き、ボーフィン博物館を
見学しおわったツアー客一行は、帰りのバスに乗り、
ホテルへの帰途につきました。

途中、日系ガイド氏の案内により窓の外をみると、
一瞬ちらっと、石油タンクが並んでいるのが見えました。
(急なことだったので、カメラのシャッターを押せず…)
ガイド氏によると、その石油タンク群は当時も今も
まったく 同じ場所にあるのだそうです 。


日本海軍の機動部隊による真珠湾攻撃をめぐっては、
停泊中の戦艦を叩いたあと、 さらに石油タンクやドックを
狙わなかったことがつねに問題となります。

この時、連合艦隊司令長官の山本五十六は、
電報などで第二回(第三次)攻撃を督促すべきだったところ、
「南雲はやらんよ」といってすませたともいわれています。


そのガイド氏も、我々ツアー客への説明として、
「日本軍は石油タンクを攻撃せず、慌てて逃げ去った」
ということを強調していました。

また、機動部隊が撃沈した4隻の戦艦にしても、
真珠湾は水深が浅いため、加えてドックが無傷に残っていたために、
ただちに引き上げられて修理され、完全に失われたのは
2隻にすぎなかったとの説明もありました。


そもそも、アメリカでは人命の損失を最大の問題にしており、
艦船や航空機の被害はあくまで「二次的」なものとして扱われているのですが、
(当時の日米の工業力の差を考えれば)
それにしてもたいした損害ではなかったというわけです。


最後に一つだけ…。

日本海軍の真珠湾攻撃においては民間人を
標的にしなかったことがよくいわれるのですが、
私がアリゾナ記念館で購入した小冊子には
自動車ごと銃撃されて死亡した市民の写真がのっており、
ここでも日米ギャップに気づかされたのでした。


まだまだ、かの地で思い知った事は多々あるのですが、
いずれ整理して、まとめたいと考えています。(永)

(写真:アリゾナ・メモリアルを振り返って)

2007年10月04日

「歴史街道」真珠湾編、再開。

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すっかり、更新が滞ってしまいましたが、「真珠湾編」の続編を
いくつか書き連ねていこうと思っています。

写真は、ハワイ・真珠湾に太平洋戦争当時の姿で保存されている
ガトー級潜水艦「ボーフィン」の、そのトイレです。

おそらく、アメリカ人の体格は当時の日本人のよりも、
ワンサイズかツーサイズ、上であったと思われますが、
トイレは非常に小さく、お尻が入るのかなと心配してしまうほどでした。

潜水艦乗りとは、本当に過酷です。

しかし、いちおう個室で区切られており、もちろん!?洋式でした。

なぜ、この写真を思い出したかといいますと、
現在、故あって零戦のエース・坂井三郎氏の著作を読み進めているのですが、
そこで坂井氏が、二・三等兵用と下士官用、准士官以二・三等兵用上用で、
トイレに「格差」があったことを憤慨していたからです。

日本海軍の軍艦のトイレでは、二・三等兵用には隔壁はなく、
一等兵用になると隣との壁こそあるもののの、
前扉はなく、准士官用になってはじめて隔壁、前扉付きの普通の洋式便所となったようです。


さて、写真のトイレには「前扉」がありませんが、これは展示用にそうしたのか、
もともとそうなっているのか、日系ガイド氏に聞きそびれてしまいましたが、
おそらく、後者だと思われます。
また、トイレ以外にも、シャワー室もあったようで、
居住性には気をつかっていたようです。

いずれにせよ、アメリカ海軍は、人間共通の“生理現象”において、階級により
著しい差別をもうけることなどなかったようで、これは食事面の待遇などにおいても
同じだったと、坂井三郎氏の著作には書いてありました。
軍隊の民主制という点で、考えさせられるテーマといえるでしょう。
<つづく…>(永)

2007年10月02日

大坂の陣の史跡・高塚地蔵

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10月6日発売の「歴史街道・11月号」の
総力特集「真田幸村と後藤又兵衛」にあわせて、
今回は大阪周辺の大坂の陣関連の史跡をいくつか
探訪してきました。

大坂城からは距離がある史跡も多く、
超がつく方向音痴の私は、「聞き込み」を駆使して
やっと現地に辿り着く事もしばしば。

「高塚地蔵」もどうしても見つからず、何度か
「聞き込み」を繰り返して発見することができました。
(八尾市泉1丁目。行かれる方は、八尾北高校を目印にされるといいと思います)


このお地蔵さんの伝承は、
夏の陣の八尾の戦いで、長宗我部盛親隊の先鋒・吉田内匠が
藤堂高虎隊の家臣・藤堂民部と戦った場所というものです。
吉田内匠はこの地蔵堂の陰から槍をもって飛び出し、
吉田内匠を襲ったが、返り討ちにされたといいます。

お地蔵さんは、磨耗が激しく、周りを塀で完全に
囲われてました。
(うっすらと顔が浮き出ているのですが、写真でわかりますでしょうか)


写真を撮影したのはすでに日が落ちる間際で、
あたりは暗く、お地蔵さんの陰に本当に誰かが潜んでいそうで、
思わずシャッターを押す手が震えてしまいました。

同時に、400年前の大坂の陣にまつわる伝承が、
こうして史跡として街に溶け込み、
かつ大切に保存されているところに
歴史の奥深さを感じた次第です。(永)

2007年09月25日

彦根取材 その3

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(写真は岡村本家さん)
誌面では詳しく紹介できなかったのですが、彦根取材で面白かったのが
「岡村本家」という造り酒屋さん。
かつて彦根藩にお酒を献上していたという、由緒ある醸造元です。
ここでは、酒蔵見学やお酒造りの体験を行なっているのですが、
それだけでなく、酒蔵という独特の空間を利用して、
和食屋、バー、ちょっとしたコンサートなど、
新しい取り組みに挑んでいらっしゃいます。
彦根の中心地からは少し離れていますが、
この一角は古い酒蔵がたくさん建ち並び、とても雰囲気があるので、
おすすめのスポットです。


また、「お土産」として、歴史街道の読者のみなさまに、
岡村本家さんより、彦根城の別名「金亀」を銘とした日本酒、
中川一志郎さんより「湖東焼」の湯呑み、
戦国グッズのしょうぶ屋さんより、「井伊直政Tシャツ」、
築城400年祭実行委員会さんより、「ひこにゃんグッズ」
などをプレゼントとしていただきました。彦根のみなさまありがとうございます。
詳しくは、10月6日発売の11月号をご覧ください。(横)

2007年09月21日

彦根取材 その2

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(写真は彦根市の夢京橋キャッスルロード)
「国宝・彦根城築城400年祭」ですが、ひこにゃん人気もあってか、
彦根城の入城者数が、予定よりも早く50万人を突破したそうです。
滋賀県は隣に京都があるということもあって、
観光的には注目されることが少なかったのですが、
最近、長浜や近江八幡が観光客を集めており、
安土城跡もあるくらいですから、歴史ファンには大いに楽しめる県だと思います。


今回の彦根取材では、地元の方々にたいへんお世話になりました。
「国宝・彦根城築城400年祭」実行委員の方には、
丁寧に彦根城をご案内いただきましたし、
戦国武将をデザインしたTシャツなど、戦国グッズを販売している
「彦根・しょうぶ屋」の方には、突然訪れたにもかかわらず、
ご好意で、車で彦根市内を案内していただきました。
その製法が失われてしまったことから「幻」と呼ばれている「湖東焼」ですが、
その再現を手がけている中川一志郎さんにもお話をうかがうことができました。
「残っている湖東焼の作品を見れば、製法はだいたいわかる」
という言葉には、さすがプロだなと感心することしきり。
彦根の方々はみなお話好きで、楽しい取材となりました。(横)
(続く)

2007年09月19日

ひこにゃんに会えた!

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「国宝・彦根城築城400年祭」が行なわれている、彦根へ行ってきました。
彦根城も素晴らしかったですが、いま話題の生「ひこにゃん」にも会うことができました。


ひこにゃんを知らない方にご説明すると、
「国宝・彦根城築城400年祭」を盛り上げるために生まれたキャラクターで、
彦根藩二代藩主井伊直孝公をお寺の門前で手招きして
雷雨から救ったと伝えられる“招き猫”と、
井伊家のシンボルである赤備えの兜を合体させて生まれたそうです。
好物は、お魚とお肉。特技は「ひこにゃんじゃんけん」。
400年祭期間中は毎日、彦根城のどこかに出没するそうです。


彦根城博物館で会えたのですが、向こうからてふてふと歩いてくる
ひこにゃんのかわいさといったら、思わず頬が緩んでしまいます。
子供たちに囲まれ、新しい芸として「ビリーザブートキャンプ」の踊りまで披露し、
一人ひとりに握手していくひこにゃん。
大人気なのもうなずけます。


お城を出て城下町を歩いても、町はもうひこにゃんだらけ。
ぬいぐるみやストラップをはじめ、ひこにゃん人形焼など、
あらゆるひこにゃんグッズが町に溢れ、
築城400年祭の盛り上がりに一役かっているようでした。
「歴史街道」では、10月6日発売の11月号で、
特集「築城400年の彦根城を訪ねて」を掲載します。
築城400年祭は11月25日までですので、
本誌片手に、ぜひ彦根城と彦根の町を訪ねていただければと思います。(横)

2007年05月16日

「歴史街道」真珠湾編⑩

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資料館を見終わったので、いよいよガトー級潜水艦「ボーフィン」に乗り込むことにしました。
外からみると潜水艦は大きく見えるのですが、艦内は非常に狭く、身をよじりながら、艦首付近まで進みました。そこに魚雷発射管が。
ガトー級潜水艦は、艦首に6、艦尾に4の合計10の魚雷発射管を装備していたそうですが、間近でみると、すごい迫力があります。と同時に、発射管の周りは計器であふれ、潜水艦があらためて精密機械であることを、思い知らされました。まさに、太平洋戦争は、日米の技術戦争であったのです。<つづく…>(永)

2007年05月09日

「歴史街道」真珠湾編⑨

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ボーフィン潜水艦博物館は、潜水艦ボーフィンと併設する資料館から成り立っており、
まず、資料館から見学することになりました。

館内は潜水艦の歴史が写真とともに解説してあり、なかなか興味深いものがありました。


さて写真は何かわかりますでしょうか? 

これは、第二次大戦中のあるアメリカ潜水艦の戦果を表わしたフラッグだそうです。

日の丸は、商船。旭日旗は軍艦を表わしています。

一隻で、これだけ沈めるとは…。

ドイツ軍艦、イタリア商船も一隻ずつありますね。

館内に同様のフラッグがいくつか飾られていましたが、
商船を表す日の丸が刻印されたものが多かったのが印象的でした。

実際、アメリカ軍の潜水艦は、太平洋戦争途中から日本の商船を積極的に狙っていたのだとか。

軍艦を狙うよりそのほうが、返り討ちにあう可能性も少なかったからです。

日本海軍の船団護衛は、明らかに後手後手に回っていたのでした。

それにしても、アメコミ風(?)のキャラクターの周りに日の丸や旭日旗を刻印していく
「感性」は、日米の国民性の違いを否が応でも感じさせます。

太平洋戦争における、何か、かの国の余裕のようなものが感じられました。<つづく…>(永)

2007年05月07日

「歴史街道」真珠湾編⑧

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アリゾナ・メモリアルの見学が終わり、
真珠湾の入り口に位置する
USSボーフィン潜水艦博物館に向かいました。

こちらはアリゾナ記念館から歩いてすぐの距離にありました。

「ボーフィン」は第二次大戦のアメリカ潜水艦の
主力をなしたガトー級潜水艦で、全長95メートル、
全幅8.2メートル。乗員は80名程度だそうです。

ところで、この「ボーフィン」は、
疎開のため沖縄から長崎に向けて多くの学童を乗せて航行中であった
対馬丸を撃沈した艦であったことを知らされ、
日本人のツアー客一行の足取りはなんともいえない重いものになりました。

<つづく>(永)

2007年04月23日

「歴史街道」真珠湾編⑦

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メモリアルの奥には、戦死した1,100名の将兵の名を刻んだ大きな大理石がありました。
この慰霊碑をみて、中年の白人女性が「あっ」という感じで口に手をあてて、
今にも泣きそうな顔になりました。
その女性に限らず、
その慰霊碑の前にたった白人は皆無言で哀悼の意を捧げているようであり、
日本人の私はさすがに居たたまれなくなって、すぐにその場を後にしました。
困ったのは帰りのボートの際、座る場所がなかったこと。
周りはほとんど白人であり、周りの冷たい視線を感じました(思い過ごしかもしれません)。
幸い、日系のガイド氏の隣の席が空いていたので、そこに座りました。
私は、彼が何か話しかけてくれるのを期待したのですが、
彼はそれを静止しているようでした。
帰りのバスでその日系ガイド氏は、
欧州戦線における日系人部隊の奮闘振りを解説していました。
それぞれの生き方によって、受けつくべき、また語るべき物語は違うのです。
<つづく…>(永)

2007年04月20日

「歴史街道」真珠湾編⑥

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写真中央、海面に浮かんだ「しみ」が確認できますでしょうか。
じつはこれ、
アリゾナから今も染み出ている重油なのです。
沈没から60余年経ったいまでも、
アリゾナからはこうして
毎日重油が出ているのですね。
アリゾナ記念館に向かうバスのなかで日系ガイド氏がそう
いったときは、みんな「ほんとなのー」という感じでしたが、
実際それを目にすると、一様に悲痛な顔をしていました。
まさにアリゾナ・メモリアルは物言わぬ歴史の「証人」として
その存在が捉えられているのだということが、
私もはっきりわかりました。
また、その重油の周りを魚が何事もないように泳いでいた。
ハワイの海はきれいなのです。
ちなみに写真左上に見えるのは、慰霊のために捧げられた花束です。
「バサッ」と音がしたので私も我に返ったのですが、それは花束が
水面に落ちる音だったのです。
静けさの中で、それだけが辺りにこだまし、しばらくの間、その花束から
目を離すことができませんでした。
<つづく…>(永)

2007年04月16日

「歴史街道」真珠湾編⑤

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こうして、アリゾナ・メモリアルにやってきました。

ところで、写真が何かわかりますでしょうか。

これは、沈んだ戦艦アリゾナの上に浮き桟橋のようにたっているメモリアルの中央からみた彼女(※船は女性名詞)の第三砲塔の残骸です。近くでみると非常に大きく、またその錆び付き具合が時の流れを感じさせて、なんとも痛ましい気分にさせます。

ちなみに、当時、真珠湾には、「カリフォルニア」「メリーランド」「テネシー」「ウエスト・ヴァージニア」「ペンシルヴェニア」「ネヴァダ」、そして「アリゾナ」「オクラホマ」の合計八隻の戦艦が停泊していましたが、このうち完全に撃沈されたのは「アリゾナ」「オクラホマ」のみで、他の戦艦は大破着底したものでも、真珠湾は水深が浅いため、すべて引き上げられて修理、改装を施され、戦線に復帰しています。

いずれにせよ、その多くは1920年頃前に竣工された「旧型」戦艦であり、日本の「大和」級に匹敵する「新型」戦艦はなかったことは注意すべきです(もっとも、日本にもこのとき新型戦艦と呼べるものは「大和」しかありませんでしたが※41年12月16日竣工)。

それだけに、空母がいなかったことは、日本海軍にとってなんとも惜しかったわけですが、これはいっても仕方がないことでしょう。<つづく…>(永)

「歴史街道」真珠湾編④

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(写真:アリゾナ・メモリアル、建物の中央は下にたわんでいるのに、両端はしっかり支えられている形となっているのは、最初の負けにもかかわらず、最後には必ず勝利をもたらすという意味がある)


記録映画開始前になったので、あらためて順番待ちの列に並びます。
ちなみに、整理券をよく見ると、「リメンバー・パールハーバー」の文字とともに、
戦艦「アリゾナ」とともに沈んだ「オクラホマ」の水兵の顔写真がプリントされていました。整理券一枚一枚に、戦死した違う兵士の顔が印刷されているのでしょうか。
戦後、60余年がすぎてもなお、「リメンバー・パールハーバー」という言葉がこのようなかたちで刻みこまれていることに、私は率直にいって驚きました。
映画は日米開戦の経緯から、山本五十六が真珠湾攻撃を決めた理由が手短にまとめられ、
なかなか見応えがあります。
ところで、真珠湾攻撃といえば、それを知っていてわざと現地の司令官に連絡しなかったという、ルーズベルトの陰謀説が古くからささやかれています。むろん、その真偽は私などには確かめようもありませんが、興味のあるところではあります。
そこで映画を注意してみていると、真珠湾攻撃が完全な奇襲になってしまったのは、レーダーがいち早く日本軍機の編隊を察知していたにもかかわらず、ちょうどその頃、B-17の編隊が来るニュースが伝わっていたことが災いして、それと誤認してしまったという「合理的な」説明がなされていました(もし、仮にそのレーダー情報に基づいて警戒態勢をとっていれば、攻撃を受ける前に「50分」の余裕があったことになります)。
しかし、私が改めて感じたのは、最初からアメリカ軍がレーダーを駆使する戦いをしようとしていた、ということでした。
開戦当初から、日本の外務省の暗号が破られていたのは、今では高校生でも知っている歴史的事実ですが、この広く「情報」に関する取り組み方の違いこそ、ミッドウェー海戦をはじめ、日本海軍が一連の海戦でアメリカ軍に敗れつづけた原因でありました。これは余談(※最近の研究では、日本もまた米英中の外交暗号を一部解読していたようですが)。
ともかく、映画が終わり、いよいよボートに乗ってアリゾナ・メモリアルに向かいます。
そこにつくまで3、4分といったところでしょうか。この狭い幅をかけぬけて、日本軍機は爆撃、雷撃したのかと思うと、たしかにそれは神業といえる範疇にあった、などと余計なことを考えていると、あっという間にそれが近づいてきました。<つづく…>(永)

2007年04月04日

「歴史街道」真珠湾編③

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(写真:左の戦艦がミズリー、右の白亜の建物がアリゾナ・メモリアル)


そこであわててセンター内をかけまわり、何か見落としたものはないかを確認したのですが、吹き抜けになっているセンターの外には真珠湾を一望できる庭があり、外に出ました。


対岸のフォード島越しには戦艦ミズリーとアリゾナ・メモリアルが並んでみえ、もちろんカメラのシャッターを押しました。

そうなんですね、戦艦アリゾナの上に建つアリゾナ・メモリアルはボードで渡ることになっているのです。それにしても、戦艦ミズリーは日本全権が降伏文書に調印したところ。

それと、太平洋戦争開始の象徴となった戦艦アリゾナのメモリアルが並んでいる様子は、やはり何かアメリカの「意志」みたいなものを感じないわけにはいきませんでした…。

<つづく…>(永)

「歴史街道」真珠湾編②

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センターへの入り口では、でっかい戦艦アリゾナのいかりが我々を迎えてくれました。
(なお、アリゾナ記念館への入館料は無料ですが、館内には募金箱が置かれていました)

入館すると、映画を観る順番待ちのチケットが渡されます。

なお、映画の音声と館内の資料の説明用に、ヘッドホン付きの各国版の通訳フォンが
貸し出されており、$5でした。

受験英語に見事に適応し(?)、ヒアリング能力ゼロの私は、迷わず借りることを決定!

その待ち時間に、館内にある資料室や書店を見学することにしました。書店では真珠湾攻撃時のカラー写真が載った本はないか、必死で探したのですが、着色したもの以外は目ぼしいものは見つかりませんでした(当時のものはないのかもしれません??)。

また、書店では太平洋戦争を扱った10時間もののDVDが発売されており、$70前後だったので意外と安い! と思い、購入を考えたのですが、日本語版が売っていなかったので、断念するにいたりました…(よく探せばあったのかもしれません。書籍については日本語版が発売されています。小冊子を一冊購入)。

そんなこんなであっという間に時間がすぎ、映画開始時間までわずかとなりました。

〈つづく…〉 (永)

「歴史街道」真珠湾編①

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きわめて私的なことに属することながら、新婚旅行で一週間休みをとり、ハワイにいってきました(編集部のみなさま、ご迷惑をおかけしました…)。

奮発してシェラトン・モアナ・サーフライダーに泊まりましたが、部屋のテラスから眺めるダイヤモンドヘッドと海の光景はなかなか綺麗で仕事の疲れも忘れました(全部ではないですけれど)。

それはともかく、この旅行ではかねてより念願のアリゾナ記念館とそのメモリルアルにいってきました。真珠湾のフォード島周辺には太平洋航空博物館、戦艦ミズリー、ボーフィン潜水艦博物館、そしてアリゾナ記念館と、太平洋戦争の兵器や資料が展示されている場所がなんと4つもあるのです。

そのうち、今回の旅では、アリゾナ記念館とボーフィン潜水艦博物館にいくことにしました。

まず、アリゾナ記念館について。

昭和16(1941)年12月7日(日本時間8日)早朝、南雲忠一ひきいる帝国海軍の機動部隊は、真珠湾を奇襲攻撃しました。

日本の攻撃機が放った爆弾により、戦艦アリゾナは大勢の乗組員とともに真珠湾に轟沈します。

アリゾナ・メモリアルは、その沈む戦艦アリゾナの上を横切るように建てられた慰霊廟であり、発起人の一人は、あのプレスリーと旅行ガイドには書いてありました。

某旅行代理店にアリゾナ記念館とすぐそばのボーフィン潜水艦博物館をめぐるツアーがあったので利用しようと思ったのですが、集合時間が朝7時と旅行者には早すぎる時間…。

ならば一人で行こうと、それとなく行き方を訪ねてみたのですが、担当者に「日本人はほとんどいませんよ」といわれて急に心細くなり…、やはりツアーに頼ることにしました(お代は$52)。

日系のガイド氏によれば、ハワイを訪れた米国人のうち100人中95人がアリゾナ記念館にいくそうですが、日本人観光客の場合は100人中3人しかいかないとのことです。

ちなみに警備は厳しく、財布やカメラ以外の手荷物は持ち込み禁止(もし持参してきてしまった人は、近くの預かり所に預かってもらうことになります〔有料〕)。


集合場所のワイキキのホテルからアリゾナ記念館までバスで30分ぐらいであり、アリゾナ記念館についたのは朝の7時30分だったのですが、すでに長蛇の列が…。

じつは、アリソナ記念館にいくには、まずセンター内の劇場で必ずドキュメンタリー映画を観ることが課されているのですが、これがその整理券をもらうための列だったのです。

ちなみにガイド氏の説明によれば、映画まで最長3時間近く待ったこともあるとか。「そんなこと聞いてないよー」と思いつつも、静かに列に並んだのですがその日はすいていたらしく、映画の上映時間まで1時間あまりですむことになりました。

ちなみに、時間が早いこともあったでしょうが、日本人は我々ツアー客以外に見当たりませんでした。<つづく…> (永)


2006年12月18日

「信玄餅」って?

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(写真は「武田神社」です)
もう一つ、長野、山梨取材について。
その後、北杜市内の「山本勘助屋敷」に残る勘助のお墓に手を合わせた後、
武田信玄の菩提寺である恵林寺、
躑躅ヶ崎館跡に建てられた武田神社などを回って、今回の取材は無事に終了。
お土産には自宅用には「くろ玉」を、
編集部には、先日いったように「信玄餅」を買いました。


「くろ玉」はえんどう豆のあんを黒糖で包んだお菓子で、
見た目は真っ黒の玉羊羹のようですが、中身はきれいな黄緑。
なんと昭和4年からの歴史があるそうです。
「信玄餅」は、お餅をきなこと黒蜜でいただくもの。
こちらの歴史は、ひょっとして信玄の時代から?
でも、なんで「信玄餅」なんでしょうか?
どなたかご存知の方がいらっしゃれば、どうか教えてくださいませ。(横)

2006年12月15日

勘助もいいけれど、仁科盛信も!

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山本勘助の取材では、高遠城にも行って来ました。
目的はもちろん、勘助の築いた高遠城を撮影することにあるのですが、
武田ファンの私としては、
「仁科盛信が戦った城を見たい!!」
という気持ちの方がほんの少しだけ上回っていました。
同行のカメラマンさん、先輩、すみません・・・。
でも、この仁科盛信はそれだけ魅力的です。
武田家が滅びる際、織田軍を相手に唯一まともに戦った人ですから。
きっと、好きな人も多いのではないでしょうか。
ちなみに「長野県歌・信濃の国」でも
木曾義仲・佐久間象山らと並んで仁科盛信(歌詞では信盛)の名も出ているそうです。
この盛信のDNAが保科正之に受け継がれ、
幕末における会津藩の戦いに結びついていくのだと思うと、
感慨もひとしおでした。
仁科盛信、いずれ何かしらの企画で取り上げたいです。


あっ最後に私の名誉のために・・・。
勘助が築城した名残りと伝わる「勘介曲輪」の位置は、
少し分かりにくいのですが、事前に調べておいたので、
すぐに発見できました。同行の皆様、これで許してください。(村)
(※上の写真は「勘介曲輪」ではなく、高遠城の堀です)

山本勘助が見た富士山?

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さらに、長野・山梨取材の続き。
「風林火山館」のある辺りからは、朝もやの中に聳え立つ富士山が綺麗でした。
山本勘助や武田信玄も、こんな富士山を見ていたんでしょうね。
富士山といえば、静岡側から見ることが多いですが、
山梨側から見るのも、いいものです。
反対から見ても富士山だと明確にわかるということは、
つくづく、富士山は山として完璧に近い形をしているのだな、と感じました。
何だか、「花火はどの方向から見ても円に見える」というのと似てますね。


私の愛機の一眼レフデジカメも、少し調子が悪かったのですが、
ちゃんと最後までもってくれました。
帰ったら点検しないといけないかな。(横)

2006年12月14日

再現、躑躅ヶ崎館

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長野、山梨取材の続きです。
その後、我々は武田信玄が戦勝祈願をした諏訪大社、
諏訪氏の居城だった高島城、
勘助が築城に関わり、「勘介曲輪」が残る高遠城などを巡りました。


そして翌朝、山梨北部の北杜市にある「風林火山館」へ。
風林火山館は、武田信玄の居館「躑躅ヶ崎館」を再現した施設で、
来年のNHK大河ドラマ「風林火山」のロケにも使われているそうです。
主殿や大手門、櫓や厩などがつくられており、想像以上に立派なもの。
ただ、堀などは館としては立派ですが、他の戦国武将の「城」と比べると、
防御施設としては、少し頼りない気がします。
まさに「人は石垣、人は城」といった信玄の気構えが表われていると見るべきか、
この本拠地まで攻められることはあるまい、と思っていたのか。
しかし、城を必要としない、というイメージのある信玄ですが、
信濃進攻では、やはり幾つかの城を築き、拠点としていきます。
そこにはやはり、築城術を得意とする山本勘助の存在が大きかったのでしょう。


売店ではお土産として「山本勘助黒ゆべし」なども売っているそうですが、
残念、この日は取材のために特別に開館前に入れていただいたので、
買うことができませんでした。
代わりに甲府で「信玄餅」を買いました。(横)

2006年12月13日

諏訪に、由布姫、湖衣姫を訪ねて

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2月号(1月6日発売)の総力特集「山本勘助と武田信玄」の取材のため、
カメラマンの方と長野と山梨に行ってきました。
7時ちょうどの(スーパー)あずさ1号で、私は私は新宿から旅立ちます♪
ということで、まずは諏訪御料人ゆかりの諏訪に向かいました。
諏訪御料人とは、井上靖著の『風林火山』では由布姫、
新田次郎著の『武田信玄』では湖衣姫と称されている女性。
彼女は自分の一族を攻め滅ぼした信玄の側室になるという皮肉な運命を背負わされ、
後に武田家の跡を継ぐ勝頼を産み、25歳の若さで亡くなってしまう人物です。
展望台から諏訪湖の全景を見た後、諏訪御料人が過ごしたといわれる小坂観音院へ。
そこには、本堂の横手にひっそりと彼女の供養塔がありました。
少し小高い場所にある観音院からは、諏訪湖もよく見渡せます。
ある逸話によれば、武田信玄は「自らの遺体を諏訪湖に葬ってくれ」と遺言し、
その言葉通り、この小坂観音院沖の諏訪湖に葬られたということ。
実際は信玄は山梨の恵林寺に葬られているのでしょうが、
諏訪御料人ゆかりの場所の近くで眠っていると考えるのも何だか感慨深いですね。


なお、知っている人も多いかもしれませんが、
井上靖さんが諏訪御料人を「由布姫」と命名したのは、
『風林火山』を、大分の由布院で執筆していたから、らしいですね。
「湖衣姫」はやはり諏訪湖をイメージしているのでしょう。
あなたは「由布姫」「湖衣姫」、どちらの名前が好みですか。(横)

2006年09月25日

慶次清水を探して

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前田慶次郎の特集の取材で先日、慶次郎終焉の地といわれる米沢に行ってきました。
まず、慶次郎が「無苦庵」という小さな庵を結んだといわれる場所へ。
そこには堂森善光寺というお寺があり、慶次郎供養塔が立っています。


それから近くにあるという、慶次郎がその湧き水でお茶を点てたという
「慶次清水」を探しました。
しかし、なかなか場所がわからず、近くにいたおばあちゃんに尋ねることに。
「ああ、昔は漫画か何かで流行って、いっぱい人がきたねえ」
といいながらおばあちゃんが指差すのは、田んぼの向こうのこんもりとした林です。
田んぼの畦道を突っ切っていけばいいといわれたので、
私たち一行は、そちらを目指して歩き始めました。
しかし、言われる方向に進んだのですが、そちらには雑草が生い茂るばかりで、
どうも道らしきものはありません。
なおも畦道をうろうろしてみて、
「これは見つかりそうにないですね」
とあきらめかけて帰ろうと、振り返ったその時でした。
見ると、さっきのおばあちゃんが必死で畦道をこちらに駆けてくるではありませんか。
遠くから私たちの様子を見ていて、見かねて案内しにきてくれたのです。
「こっちに道があるはずだ」
といいながら、おばあちゃんは畦道を外れ、
胸くらいの高さまである雑草を踏み分けて、ぐんぐん林の方向へ進んでいきます。
私たちも追いかけるのですが、前日の雨で足場が悪いこともあり、なかなか追いつけません。
そうしてズボンを泥々にしながらも、必死でおばあちゃんについていった結果、
ようやく見つけたのが、写真の「慶次清水」です。
今でもきれいな水の湧き出す、静かないい場所でした。


今回の取材では、前田慶次郎の甲冑を所蔵されている宮坂考古館の館長さん、
慶次郎が作ったといわれるお面を所蔵されている方など、
地元の方々にたいへんお世話になりました。
「歴史街道」では地方取材も多く、いつもその土地の方々にご協力いただいて、
雑誌ができあがっています。
今度は、あなたの住む場所の近くに行くかもしれません。
もし道などを訪ねることがあったら、よろしくお願いします。(横)