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[江戸・東京]あの地名の意外な由来 / 特集「伊達の三傑 「独眼竜」を支えた男たち」から


[江戸・東京]あの地名の意外な由来


特集「伊達の三傑 「独眼竜」を支えた男たち」から
伊達軍団の猛将智将列伝

後藤 信康

(ごとう・のぶやす)

「性 沈勇果敢にして知略あり 国のために力を尽くし いささかも私心なし」と称された人物。
 戦うごとに先鋒を、退(ひ)くごとに殿(しんがり)を務め、その武勇から「甲州武田の高坂弾正の再来」と敵兵から恐れられた武将である。常に黄色の母衣(ほろ)を背負っていたことから、「黄の後藤」と畏怖(いふ)されていたという。
 天正15年(1587)には、蘆名(あしな)氏に対して寡兵で会津檜原(ひのはら)を守り切り、天正19年(1591)の佐沼の役では、勇将山上内膳を一騎打ちで倒した。血気盛んで檜原城主であった時は、政宗に対し、「退屈なので城主を解任して戦場に行かせてほしい」と直訴したといわれている。
 さらに大坂の陣では、出陣を政宗にまたもや直訴したが叶えられず、悔しさのあまり愛馬とともに自害したという伝承も残る。

原田 宗時(左馬之助)

(はらだ・むねとき(さまのすけ))

  18歳から一軍を指揮し、性剛直にして猛将として知られた。後藤信康をライバル視しており、戦では常に先陣を競い合ったが、ある日、宗時はついに信康に決闘を申し込む。しかし信康から「決闘を受け入れてもいいが、このような理由であなたのような勇士が命を失うことは伊達家にとって大きな損失である。もちろん私もこんなことで命を失いたくない。お互い、伊達家の忠義のために死のうではないか」と諭(さと)された。宗時は自らの未熟さを知り、その後は信康と刎頚(ふんけい)の友となったという。
 朝鮮出兵の時には、長さ一間半もの大太刀を金の鎖で肩から下げるという出(い)で立ちで、「さすがは伊達者」と称された。しかし、朝鮮からの帰国の際、 29歳の若さで病死した。政宗はその死を悼(いた)み、6首の歌を詠じ、信康は宗時の大太刀を政宗に願って譲り受け、家宝としたという。
 ちなみに、後に「伊達騒動」を引き起こす原田甲斐は宗時の孫である。

鈴木 元信

(すずき・もとのぶ)

  政宗が天下人となることを、最も強く夢見ていたのがこの男かもしれない。もともとは京都の茶人であったが、政宗に召し抱えられた後は、行政、財務能力を見込まれ、国家老となる。
 「伊達幕府」ができることを信じ、その時のために「憲法」や「式目」を用意していたが、元和(げんな)6年(1620)、自らの臨終の際に、夢破れた今、このような物が手もとにあっては幕府の疑惑を招くとして、焼き捨てさせている。
 また、仙台城の完成を祝っての宴会の席で政宗に対し、「天下を取ることに比べ、たかだか新城の建築くらいでこんなにも喜んでいるとは誠に情けない」と、涙を流したという。

片倉 小十郎重長

(かたくら・こじゅうろう・しげなが)

  片倉家において「小十郎」は、景綱(かげつな)に限らず、代々の当主の通称である。息子の重長(重綱)もその才識勇武は父に比すといわれ、「鬼の小十郎」の異名(いみょう)をとった。
 慶長5年(1600)の白石(しろいし)城合戦では、留守を命じられたにもかかわらず、勝手に飛び出し、城壁をよじ登って一番乗りを果たそうとし、これが初陣となった。
 大坂の陣では伊達騎馬鉄砲隊を指揮し、後藤又兵衛らを討ち取るとともに、単身敵の集団に突撃し、組み討ちで4つの首級(しゅきゅう)をあげたという。しかし、父からは「将の分もわきまえない行為」と大目玉をくらっている。
 妻は敵将真田幸村の娘。『老翁聞書』によれば、幸村が敵ながら重長の勇姿に惚れ込み、この男ならば、と娘を託したと記されている。

鈴木(すずき)
鈴木(すずき)

 他にも、人取橋(ひととりばし)合戦で功を挙げた国分盛重(こくぶもりしげ)、摺上原(すりあげはら)合戦で伊達成実(しげさね)とともに奮闘した白石宗実(しろいしむねざね)、関ケ原の時に最上(もがみ)への救援として直江兼続(なおえかねつぐ)と戦った留守政景(るすまさかげ)、葛西大崎一揆の残党征伐や、成実が出奔(しゅっぽん)した際に成実の妻子、家臣団を討ち取るなど、伊達家の粛清執行役となった屋代景頼(やしろかげより)など、名だたる武将たちが伊達家にはいた。「三傑」に限らず優秀な人材が豊富にいたからこそ、独眼竜は奥州の覇王となり、天下まであと一歩のところまで上り詰めることができたのだろう。