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「絶望は愚か者の結論」次代へ託した思い / 特集「信玄、怒濤の西上戦」から


「絶望は愚か者の結論」次代へ託した思い
-坂井三郎 最後のインタビューより

ラバウルでの忘れられない人々

 昭和17年(1942)4月、わが台南(たいなん)航空隊はラバウルに進出しました。これはニューギニア東部南岸のポートモレスビー攻略作戦と連動するもので、私たちはさらに、前進基地のラエに進出します。搭乗員は20数名。しかし、西沢広義(ひろよし)一飛曹や太田敏夫(としお)一飛曹などの歴戦の腕利(うでき)きがそろっていました。
 この中隊の若き隊長が笹井醇一(じゅんいち)中尉です。のちに三段跳撃墜などをやってのける空戦の猛者(もさ)となりますが、気持ちの優しい人でもありました。笹井中尉が中隊長に決まった時、夜に彼を呼び出したことがあります。飛行場南端のフォルンガルフという湾で、壊れかかった桟橋(さんばし)に座り、南十字星を見上げて、夜光虫が光る海面に足をつけながら話をしました。「笹井中尉、明日から我々の中隊長ですね。自信はあるのですか」と尋ねると、「それが、無いんだよ」という返事です。
 「無いんじゃ困るんですよ! 明日から我々坂井、西沢、太田が義経(よしつね)を守った弁慶と化して、あなたを名中隊長にします。大将たる者、実戦において後ろを見てはなりません。後ろは我々に任せなさい。暴れるだけ暴れて、撃墜を重ねなければ、部下はついて来ませんよ」
 それから、笹井中尉の大活躍が始まります。その後、惜しくも戦死されますが、中尉で功三級を贈られた(前例なし)大変な傑物(けつぷつ)でした。
 また、台南空の斎藤正久(まさひさ)司令は、我々から「おやじ、おやじ」と慕われた人です。ラエでは連日、空戦が続き、搭乗員たちの体力も消耗していきましたが、私は斎藤司令が命じるならば、火の中でも弾(たま)の中でも、いつでも飛んでいこうと思っていました。昔の武士は「己(おのれ)を知る者のために死ぬ」といいますが、斎藤司令は部下をそんな気持ちにさせる人で、今でも私は尊敬しています。

ガダルカナル上空からの生還

 連日の激戦を続けながら味方には補給がなく、一方、敵は急速に戦力を増していき、若い搭乗員の中には疲労から、「明日は体当たりする」などという者も出てきます。そんな時、下士官のいわば牢名主(ろうなぬし)的存在である先任搭乗員の私は、「馬鹿モン!俺たちは何のために南半球のラバウルまで来ているんだ。勝ちに来たんだろう。飛行機もろとも自爆するなんてとんでもない了見だ。右手がやられたら左手で戦え。両手をやられたら口で操縦桿(かん)をくわえて帰って来い」と叱咤激励しました。
 昭和17年8月7日、いよいよ敵の攻略部隊がソロモン群島南部のガダルカナル島に上陸。知らせを受けた私たち17機の零戦(れいせん)隊は、27機の陸攻隊(陸上攻撃機)を援護しつつ、約1000キロ(東京~屋久島間の距離と等しい)離れたガダルカナル島へ攻撃に向かいます。さて、ガダルカナル島上空には、米戦闘機グラマンF4Fと爆撃機ドーントレスの総勢80機が待ち構えていましたが、私たちは約半数の42機を撃墜。私はさらに敵戦闘機の編隊を発見し、その真後ろに付きますが、これは私の誤認で、後部に機銃を備えたドーントレス8機の編隊だったのです。
 16丁の機銃の一斉(いっせい)射撃を受けつつ、私は2機を撃墜。しかし、数発被弾し、1弾が右眼上部から後頭部に至り右眼は何も見えません。出血がひどく意識が朦朧(もうろう)とします。「もう駄目だ、自爆しよう」と何度も思いましたが、無意識のうちに機を水平飛行に戻しており、さらに敵機は追ってきません。
 すると、もしかしたら俺は運の強い男かもしれないという、例の「諦めない」気持ちが湧いてきました。それから4時間45分、睡魔と疲労と出血と戦いながら、奇跡的にラバウルに帰着。燃料はもう一滴も残っていませんでした。私の傷は意外に深く、本格的な手術が必要で、斎藤司令の命令で内地送還となります。私は後ろ髪をひかれる思いで戦友たちと別れ、ラバウルをあとにしました。
 内地の海軍病院で手術し、右眼は何とか失明を免(まぬか)れます。軍医からは視力が回復しない以上、もう戦闘機には乗れないと宣告されましたが、素直に聞く私ではありません。病院を脱走し、航空隊に復帰します。大村航空隊で約1年ほど教官を務めたのち、昭和19年5月には、横須賀航空隊の戦闘機隊員として転勤。翌6月には、硫黄島(いおうとう)に出勤しました。「あ」号作戦です。当時、硫黄島は米機動部隊の執拗な攻撃を受けていました。

硫黄島上空での死闘

 戦後、米国人から、「普通、脱走とは危険な場所から安全な場所に行くことをいうのに、君はなぜわざわざ第一線に行ったのだ」と聞かれます。しかし、その時の私は、「自分が行かなきや日本がやられる。飛行機乗りなら、空で死ぬのは本望だ」という心境でした。
 昭和19年7月4日、「敵機動部隊に対して、硫黄島基地残存の17機(零戦9機、艦上攻撃機天山8機)全機をもって体当たりせよ」という命令を受けます。 私は、同僚の武藤金義(かねよし)飛曹長(空の宮本武蔵と呼ばれた名パイロット)に、「金ちゃん、いよいよ今日が命日になったな。思ったより早く来たけれども、まあ行こうや」と話しかけ、笑い合いながら機に乗り込みました。
 しかし、この無謀な白昼攻撃を、米機動部隊は100機のグラマンF6F戦闘機で迎撃。わが攻撃隊はたちまち壊滅します。敵機の攻撃をかわした私は、グラマン1機を撃墜してのち、列機を引き連れて戦闘空域を離脱。改めて敵機動部隊を探しますが発見できません。
 やむを得ず硫黄島に引き返そうとしますが、天候は大雨となり、さらに日没という悪条件が重なります。
 闇夜(やみよ)の太平洋を、ほとんど自分の勘を頼りに列機を率いて飛んだのですが、2時間45分後、我ながら驚いたことに、ピシャリと硫黄島に帰り着くことができました。
 戦後、米パイロットから、私のナビゲーション法を教えて欲しいとよくいわれますが、あの時の私を支配していたのは、「絶望は愚か者の結論。絶対に諦めない。あの時だって切り抜けた。今日も何とかしてみせる」という気持ちだけだったのです。
 私は今、ともに戦って散った戦友や、また私と勇敢に真剣勝負をして散った人たちが、どんな思いで死んでいったのかを正さなければ、生き残らせて頂いた者の使命が果(は)たせないのではと考えています。
 「賞罰明らかならずしては国危(あや)うし」
 太平洋戦争という勝算のない戦いに突入させた指導者の責任に、日本人はまずきちんと目を向けるべきではないでしょうか。その点が曖昧(あいまい)なために、上の者ほど責任を取らないという悪いシステムが、今も厳然と存在しているように感じられるのです。
 また、これからの日本を担う若い方には、私をたびたび窮地から奇跡的に救ってくれた信条、「絶対に諦めない、不撓不屈(ふとうふくつ)」という言葉を贈りたいと思います。どんなに苦しい時でも、必ず活路はあるのです。

[本記事は2000年7月、生前の坂井氏に取材し、『歴史街道』同年9月特別増刊号に掲載した記事を再構成したものです【文章の一部もしくは全部の転載を禁止します】] 


特集「信玄、怒濤の西上戦」から
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