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【総力特集】ノモンハンの真実

日ソはなぜ、衝突したのか

ノモンハン、激闘の軌跡

 

昭和14年(1939)5月11日より、4カ月に及ぶ激闘が繰り広げられたノモンハン事件。そこには勝敗の行方を左右するいくつかのポイントがあった。戦いの全体像を紹介しよう。

第一次ノモンハン事件(5月11日~31日)

◆国境紛争の勃発

 5月11日、満蒙国境のハルハ河を越えて外蒙古(モンゴル)兵が侵攻、満洲国警備隊が撃退する。その後も越境侵攻が続き、関東軍第二十三師団の小松原道太郎師団長は、東中佐指揮の東捜索隊を派遣。一旦収まるが捜索隊帰還後、再び侵攻する。小松原師団長は21日、再攻撃を命じ、東捜索隊を含む山県大佐指揮の部隊を派遣した。一方、外蒙古を支援するソ連軍はハルハ河東岸に防衛線を築く。ソ連・外蒙古軍兵力は数では劣るものの、火砲と装甲車輌で日本・満洲国軍を上回った。

 28日から東捜索隊が先行し、日本軍航空隊も攻撃開始。日本軍搭乗員の練度はソ連空軍を圧倒的に上回り、ソ連軍航空機を数十機撃墜、制空権を確保する。地上戦では山県隊主力が第一線を突破するが、反撃を受けて停止。東捜索隊は孤立し、攻撃を受けて29日に全滅、東中佐は戦死。日本軍は退却し、ハルハ河東岸をソ連・外蒙古軍が制圧する。

◆第二次ノモンハン事件(6月18日~9月15日)

 6月18日より連日、ソ連軍機が越境爆撃、27日には辻政信関東軍参謀の後押しもあり、日本軍航空隊が越境してタムスク飛行場を爆撃する。敵戦闘機を一掃する大戦果を挙げたが、大本営は以後、航空機の越境攻撃を禁じた。ソ連軍第五十七特設軍団司令官に就任したゲオルギー・ジューコフは、大規模な増援を得て戦闘準備を整える。一方、第二十三師団も第一戦車団(安岡支隊)や歩兵第二十六連隊などを加え、敵の退路を断つ反撃を企てた。                                        
 7月2日、日本軍が作戦開始。ハルハ河を渡河する西岸攻撃には歩兵中心の小林支隊が、東岸攻撃には安岡支隊(戦車第三、第四連隊)が向かう。ソ連軍は東岸に堅固な陣を構える。
 3日、ソ連軍は増援が西岸に到着し、渡河した日本軍と交戦。ソ連軍戦車は大損害を出すが、砲撃で日本軍も死傷者が急増し、5日に撤退。東岸では3日未明、戦車第四連隊が夜襲を敢行して敵陣を蹂躙、戦車第三連隊も敵陣を攻撃する。しかしソ連軍の反撃により、6日に日本軍退却。なお9日、関東軍司令部の戦車温存の意向で安岡支隊は解隊された。

◆方針の転換

 7月7日から第二十三師団及び岡本支隊は、ソ連軍の優勢な砲撃を避けて、夜襲を全戦線でしかけた。ソ連軍は日本軍の進出を許すものの崩壊はしない。日本軍は方針を変え、敵の砲兵を除去すべく新たに砲兵団を組織する。
 23日、日本軍の砲撃による総攻撃が始まるが、逆に対岸の高地に陣取るソ連の砲撃に圧倒される。僅か3日間で日本軍は攻勢を諦め、守勢に方針転換し、越冬に向けた陣地構築に入る。8月4日、日本軍は新たに第六軍を創設、荻洲立兵中将を司令官に任命した。

◆ソ連軍による8月攻勢

 ソ連軍は兵力と物資を集め、総攻撃を準備するが、日本軍は資材不足で陣地構築が進まない。8月20日、ソ連軍が総攻撃を開始。24日、ソ連軍が日本軍の後背に出て包囲網が完成。日本軍は有効な反撃ができず。26日、日本軍諸部隊は陣地が寸断され、夜に東へ脱出する。28日、ジューコフはスターリンに勝利を連絡。31日、戦闘が終了。
 航空戦でもソ連軍機は数で圧倒、経験豊富な操縦者も派遣されていた。また操縦手背面に装甲板を装備したИ-16は一撃離脱戦法をとり、九七式戦闘機でも撃墜が困難だった。
 関東軍は本腰を入れた大反攻を計画する。しかし大本営は事態の悪化と、23日に独ソ不可侵条約が結ばれて、ソ連による大軍の極東動員が可能になったことで、9月3日、作戦中止を命令した。15日、ソ連と停戦協定が成立。