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【総力特集】関ヶ原「籠城」列伝

天下を左右したもう一つの決断

Column1 もう一つの転機…岐阜城陥落

金沢への帰還を急ぎ、浅井畷で痛撃された前田軍二万五千の、東軍との合流は頓挫した。しかし浅井畷の戦いの10日ほど後、再び戦局に大きな転機が訪れる。東軍による岐阜城攻略である。

西軍の戦略において、岐阜城は極めて重要な位置づけであった。石田三成ら西軍首脳は「岐阜城―大垣城」のラインを最終防衛線と定めて、そこで東軍と対峙し、濃尾国境、あるいは尾山国境で雌雄を決する目論みであった。峻険な山城の岐阜城を見込んでの戦略である。

一方、岐阜城攻略を期して美濃へ進軍したのが、福島正則や池田輝政、井伊直政ら歴戦の勇将が先を競う東軍先鋒であった。三万五千の大軍は、岐阜城に拠る西軍六千余の約6倍に及ぶ。彼らは8月22日に木曾川を渡って、最初に竹ケ鼻城攻略を目指した。

この時、岐阜城主織田秀信(信長嫡孫)は東軍を迎撃すべく、あえて城から打って出て、合渡に陣を布いた。家臣の「籠城して大垣からの援兵を待ちましょう」との進言に、
「もし何もせずに城を守れば、臆病者として笑われるだろう」
と首を縦に振らなかったのは、織田家の誇りを胸に秘めていたからか。しかし、押し寄せる大軍を前にあえなく敗退。そして翌23日、東軍の岐阜城総攻撃が始まった。

東軍で目覚しい活躍を見せたのが、福島正則隊と池田輝政隊である。福島隊が大手口を破り城内に侵入する一方、池田隊は水の手口から二の丸に攻め上がり、本丸へ侵攻、天嶮の要害岐阜城は、僅か一日にして陥落したのである。

頼みの岐阜城がかくも早く落ちるとは、西軍にすれば全くの計算外であっただろう。秀信が野戦を挑まず、最初から籠城していれば、あるいは結果は変わっていたかもしれない。ともあれ、東軍先鋒を岐阜城に釘付けにし、有利な態勢をつくろうという三成の思惑は崩れ、逆に東軍の勢いに拍車がかかるのであった。

参考文献:小和田哲男『関ヶ原から大坂の陣へ』(新人物往来社)他