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【総力特集】あれから430年…本能寺と光秀の謎

なぜ信長を討ったのか?

COLUMN 1

まだまだある「本能寺の変」異説

以上、光秀の単独実行による「信長非道阻止説」、四国問題が大きく影響をもたらした「斉藤利三介在説」、織田・徳川同盟の破綻から生まれた「光秀・徳川家康同盟説」に加え、「羽柴秀吉黒幕説」、「足利義昭黒幕説」、「朝廷黒幕説」を紹介したが、他にも様々な説がこれまで唱えられてきた。以下、研究者による主な諸説を紹介しよう。

まず、キリスト教宣教師らが黒幕であったとする「イエズス会黒幕説」。信長の天下統一事業はイエズス会の支援の下に行われており、中国大陸への進出も計画されていたのだが、信長が次第に増長して己の神格化を進めたために、イエズス会は光秀に信長を討たせ、その光秀を秀吉に討たせたというものであった。

別の宗教勢力では、本願寺が黒幕ではないかという説もある。信長と石山合戦を戦った本願寺顕如の息子の教如が天正8年(1580)に大坂を出て、紀伊雑賀や美濃などを放浪した末、播磨に潜伏した。その教如の元に、織田軍が雑賀にいる父・顕如を攻撃するという知らせが届き、本願寺門跡の滅亡を阻止するべく、朝廷を通じて光秀に信長討伐の命を下したという説である。教如は備中高松にいる秀吉にもその情報を伝えるため、秀吉は高松城攻略を急ぎ、速やかに中国大返しを行なえたという。

異色の説としては、織田政権時代にも光秀を中心として室町幕府の奉公衆・奉行衆などで構成される勢力があったというもの。

足利義昭追放後も信長は足利将軍の代行政権に過ぎず、室町体制が存続していた。信長は自分が太政大臣となり、徳川家康を将軍に就任させることでその体制を打破しようとしたが、光秀ら奉公衆・奉行衆たちがそれを察知し、信長と信忠、家康を討伐しようとしたというものである。

細川藤孝の裏切りにより家康は逃してしまい、山崎の合戦で幕府奉公衆・奉行衆が討伐されて室町幕府が滅んだと説明され、「明智光秀制度防衛説」として唱えられている。

その他の説としては、「堺の商人が関与したという説」や「伊賀忍者が関与した説」、「森蘭丸黒幕説」などなど。残された史料をどのように読み解くか、状況証拠からどのような推論を立てるかによって、本能寺の変のストーリーも様々に描くことができる。そこに謎解きの楽しみがあるのだが、あなたはどう考えるだろうか。