人名事典

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永倉新八

(ながくら・しんばち)
天保10年(1839)、松前津江戸定府取次役の長倉勘次の次男として、江戸下谷三味線堀の藩邸で生まれる。幼名は栄治、諱は載之。神道無念流の免許皆伝後、天然理心流の近藤勇、土方歳三らと親交を結び、浪士組の一員として上京。新選組結成後は、副長助勤・二番組頭をつとめ、池田屋事件では近藤とともに奮戦した。鳥羽伏見戦を経て、勝沼戦の敗退後、新選組と袂を分かって靖共隊を組織し、北関東を転戦したのち、江戸に帰還。松前藩に帰藩し、藩医・杉村松柏の婿養子となって杉村義衛治備を名乗る。その後、松前・小樽に暮らすが、上京して板橋の新選組供養塔建立に尽力し、小樽に戻ると北海道樺戸監獄の剣術師範として招聘された。退職後はふたたび上京したが、晩年は小樽で暮らし、小樽新聞の要請を受け、新選組回想録「永倉新八」を同紙に連載した。大正4年(1915)、77歳で死去。
(データ作成:2013年)