松下幸之助の歩んだ道 [再録]

第9回

肺尖カタルにかかる――不健康もまたけっこう

 私が健康なとき、調子のいいときは、自分で仕事しますよ。しかし、熱が出たりなんかするときは、できません。だからどうしても人に仕事を頼るということになるんです。「じゃあ君、ひとつやってくれよ。私はきょう熱があるから頼むで」と、こういう調子ですわ。これはもうそうせざるをえないですもんな。そうすると、その時分は、大将と言いますわ、小さい町工場ですから。「大将が病気やったらしょうがない。やったろ」とこういうことでしょうな。それでだんだんその人たちがジリジリと仕事するようになったわけですね。
 だから、人がよく働いてくれたということは、私があんまり「こうせえ、ああせえ」と言うよりも、「こうして下さい。頼むよ」と、こういう状態であったからだと思うんです。自分の体が弱いことが成功の一つの要因になったんです。
 松下幸之助が大阪電燈に勤めていた19歳の頃のこと、広告イルミネーション工事にも携わったことがある浜寺海水浴場に友人と泳ぎに行ったことがありました。その帰り道、急に咽喉がむずむずして咳が出てきました。“おかしいな”と思ってパッと痰をはいたところ血が混じっていたのです。「恐れていたものがついに来たか。これは大変なことになった」幸之助は青ざめました。
 というのは、8人兄弟の三男末っ子に生まれた幸之助は、そのときすでに父母はもちろん兄姉5人を亡くしていましたが、そのほとんどが肺結核によるものだったからです。家に帰るとすぐに近所の医者に行きました。診断は「肺尖カタル」(肺尖部分の結核症)というものでした。
「先生、どうしたらよろしいか」
「あんた、故郷に帰りなさい。故郷に帰って少なくとも3カ月じっくり養生しなさい。そうしたら治る可能性があるから」
そう言われても、当時の幸之助は帰るにも帰る故郷がありません。その上、まだ健康保険もない時代、日給制のため休めば給料がもらえません。しかたなく幸之助は薬を飲みながら3日行っては1日休み、1週間行っては2日休むといったような状態で勤務を続けました。
 ところが、「これで病が悪くなれば、これも自分の運命だ」と覚悟を決めたことがよかったのか、それ以上は悪くならず、一進一退の状態が1年ほど続き、その後、3日に1遍休んでいたのが、1週間に1遍、半月に1遍というように小康を得てきたのです。しかし、全快というわけにはいかず、22歳で独立した後も第二次大戦の終戦を迎える昭和20年、50歳くらいまでは寝たり起きたり、養生をしつつ経営に当たってきました。幸之助は、冒頭の言葉のように、それがまたよかったと言うのです。
 そのような体験から、こうも訴えています。
「不健康者が不健康を嘆いてばかりいてはいけないわけで、それではますます悪くなる。“不健康もまたけっこう”という気持ちでやっていけばいいのだと思いますな」
(つづく)

PHP総合研究所顧問
谷口全平