昭和45年のことです。松下幸之助の受診していた鍼医者が、飛鳥時代の遺跡が点在する奈良県明日香村に宅地開発の波が押し寄せていることを憂え、目が不自由にもかかわらず、大阪から同村に居を移して遺跡の保存運動に立ち上がりました。

ところが、政府の理解を得られません。当時の佐藤栄作首相に直訴することにしました。奥さんが口述筆記した長文の手紙を幸之助のもとに持参し、首相に渡してくれないかと頼んだのです。その熱意に打たれた幸之助は、「忙しい方なので、長い手紙はなかなか読んでくれないかもしれません。聞いてもらいますから、内容をテープに吹き込んでください」と言って、依頼を引き受けます。

そして首相も参加している財界人の会合に出席した際、鍼医者が録音したテープを流しました。感銘を受けた首相はさっそく現地を視察し、遺跡の保存に力を入れるべきだとの認識を固めます。昭和46年4月、政府の補助も出て、飛鳥保存財団が設立されました。


仲居さんの訴えで工場を建設

財団設立に喜んだ鍼医者でしたが、そのわずか4カ月後、病のため53歳の若さで世を去ります。しかし、翌47年に高松塚古墳の壁画が発見され、鍼医者が望んだように、日本中の人々が遺跡保存の重要性を認識するようになりました。

昭和41年に幸之助は鳥取県米子市を訪問したことがあります。宿泊先の旅館で夕食をとっていると、給仕をしていた仲居さんから、「米子に工場をつくってほしい」と懇願されました。「若い人の働く場所が少なく、東京や大阪に出ていってしまいます。大きな会社の工場があれば、私も親子水入らずの生活ができたのですが」と言うのです。

幸之助は話を聞いたものの、とくに何も答えませんでした。仲居さんは“厚かましいお願いをしてしまった”と反省しますが、翌日、「こんなに地元のことを思っている人がいるとは感心した」と幸之助が周囲の人に話していることを耳にし、驚きます。

幸之助も地方の過疎化には心を痛めていました。その後、日本のためになるからと、多少の経済的利益を犠牲にしても、地方の工場建設に力を入れます。米子にも昭和47年、松下電器の関連会社の工場が建ちました。幸之助が視察の折、招待した仲居さんに「あんたのおかげや」と声をかけると、仲居さんの目から涙があふれたそうです。


人を選ばず耳を傾ける

以前から幸之助のもとには工場誘致の話が数多くありました。けれどもそれらは通常、自治体の首長や議員によるものだったので、幸之助は仲居さんの切実な訴えに驚くとともに、過疎化の深刻さを実感したのです。そんな一庶民の願いを実現すべく動いたのも、日ごろから人を選ばず、真摯に相手の話に耳を傾けるという、おもてなしにも通じる謙虚な姿勢があったからでした。

(月刊「PHP」2017年3月号掲載)


松下幸之助とPHP研究所

PHP研究所は、パナソニック株式会社の創業者である松下幸之助が昭和21年に創設いたしました。 PHPとは、『Peace and Happiness through Prosperity』の頭文字で、「物心両面の調和ある豊かさによって平和と幸福をもたらそう」という意味です。

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