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総力特集:立花宗茂

明・朝鮮連合軍15万を撃退!碧蹄館の戦い


逸話から香るその人柄

快男児と称される宗茂には、心涼(すず)やかなエピソードが少なくない。そんな人柄が窺(うかが)える逸話(いつわ)を紹介しよう。

秀吉からの恩賞を断る

 「四国、九州のうち、望みの国を与えよう」
 天正(てんしょう)16年(1588)、上洛(じょうらく)した宗茂(むねしげ)は、秀吉(ひでよし)から恩賞(おんしょう)話を切り出された。しかし宗茂は、昇殿(しょうでん)の許し〔五位(ごい)から昇殿〕のみを望む。「無欲なやつよ」と感心した秀吉が、宗茂を従四位(じゅしい)下にしようとすると、宗茂は謝しつつそれも断った。
 「旧主・大友義統(おおともよしむね)殿は、五位でございます。義統殿を四位に、私を五位にしてくださいませ」
 父の立花道雪(たちばなどうせつ)、高橋紹運(たかはしじょううん)や自分が忠義を尽くした主家を越えるのは、本意とするところではなかったのだ。これには秀吉も感服し、宗茂を五位に任じたという。

本多忠勝と酒を酌(く)み交わした夜

 「東西無双の者どもである」。宗茂が小田原(おだわら)の陣で諸将を前に、本多忠勝(ほんだただかつ)とともに秀吉から賞賛されたことは、よく知られている。しかし、この話には続きがある。その場を退出した後、宗茂の宿所に忠勝が訪ねてきたのである。宗茂は大いに喜び、「後学のため、是非(ぜひ)、貴殿のお話をお聞かせください」と謙虚に求めた。忠勝も宗茂の人柄に惚(ほ)れ込み、2人は深夜まで酒盃(しゅはい)を傾けて語り合ったという。忠勝は、実父・紹運と同年の生まれである。父同様、忠義一徹で武勇の誉(ほま)れ高い忠勝との出会いは、宗茂にとって忘れ難(がた)い一夜になったに違いない。

宗茂、家臣に去られる

 宗茂の家臣に道雪の一族で、戸次統直(べつきむねなお)という強弓(ごうきゅう)の使い手として知られる男がいた。統直は、その腕を活かして碧蹄館(ビヨクジエグアン)でも奮戦。帰国後、宗茂は家臣に論功行賞(ろんこうこうしよう)を行ない、抜群(ばつぐん)の功を立てた統直には、「後日さらに賞を与える」と伝えた。ところが統直は、「後日とは何たること。そんな手緩(てぬる)い処遇には従えん」と宗茂のもとを去り、井伊直政(いいなおまさ)に仕えてしまった。家臣を大事にする宗茂にとっては、残念な出来事であっただろう。しかし宗茂は、これを恨(うら)むことはなかった。後日、直政から統直について尋(たず)ねられた宗茂は、2度狙(ねら)った敵は、必ず討ち取る男です」と讃(たた)えた。このため直政は、統直を優遇したという。

東軍に味方する従兄との別れ

 宗茂の家臣に、吉弘統幸(よしひろむねゆき)という者がいた。家臣とはいえ、高橋紹運の実家・吉弘家の当主で、宗茂の従兄(いとこ)に当たる。大友家の重臣だったが、主君・大友義統が朝鮮の役(えき)で敵前逃亡し改易(かいえき)されたため、宗茂を頼ってきたのだ。
 慶長(けいちょう)5年(1600)、石田三成(いしだみつなり)が打倒家康(いえやす)の檄文(げきぶん)を発すると、統幸は勇(いさ)んで宗茂に申し出た。「今こそ大友家再興の時。お暇(いとま)を頂戴(ちょうだい)いたします」。統幸は、義統の嫡子(ちゃくし)で家康のもとにいる義乗(よしのり)を援(たす)け、東軍に与(くみ)することで大友家を再興しようというのだ。当然、宗茂とは敵味方に分かれる。しかし宗茂は、これを快諾(かいだく)した。
 「太閤殿下(たいこうでんか)の命で独立したとはいえ、立花家にとって大友家はあくまで旧主。いささかなりとも手助けしたい」
 それが宗茂の偽(いつわ)らざる心境だったであろう。宗茂は統幸に旅銀(りょぎん)、刀、馬を与えて送り出した。
 しかし統幸は、大坂に着いたところで驚くべき報に接する。義乗の父・大友義統が西軍に与したというのだ。統幸は、義統に面会して東軍につくよう翻意(ほんい)を促(うなが)すが、義統の決心は変わらない。「ここで主君を見捨てるのは武士の恥(はじ)」。統幸は義統に従い、石垣原(いしがきばる)の戦いで奮戦した末、壮絶な討死(うちじに)を遂(と)げた。紹運、宗茂と同じ血脈(けつみやく)のもとに生まれた男に相応(ふさわ)しい最期(さいご)であった。

大儒学者を育てる

 寛永(かんえい)11年(1634)、宗茂は安東助四郎(あんどうすけしろう)という家中の少年に注目していた。弱冠(じやつかん)13歳ながら、助四郎の頭脳に非凡なものを見出した宗茂は、彼を藩の文教面における指導者に育てようと思い立ったのである。翌年、宗茂は助四郎を江戸に呼び出し、嗣子(しし)・忠茂(ただしげ)の近侍(きんじ)に登用したうえ、学問に励むよう命じた。しかし、学問に打ち込む助四郎の姿は、他の藩士たちから快(こころよ)く思われなかったようで、後に助四郎は病(やまい)を理由に職を辞し、柳川(やながわ)に戻ってしまった。驚いた宗茂は、忠茂と連名で助四郎に手紙を出す。
 「病はいかがか。容態(ようだい)はどうかと心配している。だが帰国した理由はそればかりではあるまい。お主(ぬし)の勉学は我らが認めたもので、我らはお主のことを少しも疑ってはいない。お主に何かと申した者たちはこちらで吟味(ぎんみ)する。どうか、気を取り戻してほしい。お主が確かな人物であることは、わかっている」
 この心のこもった手紙に心打たれた助四郎は、発奮(はつぷん)して一層(いっそう)勉学に励んだという。後に、助四郎は安東省庵(せいあん)と名乗り、「関西の巨儒(きょじゅ)」と謳(うた)われる大儒学者となった。宗茂の目に狂いはなかったのである。