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【総力特集】ユダヤ人救出、キスカ撤退、占守の戦い…奇跡の将軍・樋口季一郎 あくまで「人道」を貫く

COLUMN 1 樋口が記した「オトポール」事件

樋口が記した「オトポール」事件

 樋口は、オトポールでのユダヤ人難民救出事件について、どのように考えていたのか。その回想録(『アッツ、キスカ・軍司令官の回想録』芙蓉書房、1971年――1999年に同社より『陸軍中将樋口季一郎回想録』に改題再刊)をひもといてみよう。

 まず、ドイツからの抗議に対して、いかなる態度を示したのか。樋口は、次のように主張したと記している。

「私はドイツの国策が、自国内部に留まる限り、何ら批判せぬであろう。またすることは失当である。しかし自国の問題を自国のみで解決し得ず、他国に迷惑を及ぼす場合は、当然迷惑を受けた国家または国民の批判の対象となるべきである。
 もしドイツの国策なるものが、オトポールにおいて被追放ユダヤ民族を進退両難に陥れることにあったとすれば、それは恐るべき人道上の敵ともいうべき国策である。そして、日満両国が、かかる非人道的ドイツ国策に協力すべきものであるとすれば、これまた驚くべき問題である。
 私は日独間の国交の親善を希望するが、日本はドイツの属国でなく、満州国また日本の属国にあらざるを信ずるが故に、私の私的忠告による満州国外交の正当なる働きに関連し、私を追及するドイツ、日本外務省、日本陸軍省の態度に大なる疑問を持つものである」

 当時、関東軍参謀長であった東條英機は樋口の主張に同意し、それを是として陸軍省に申し送った。これにより、一連の抗議はうやむやになる。樋口はこの東條の姿勢を率直に評価する。

「私は、東條の大東亜戦争突入に対する軽率については後に大々的に弾劾する積りであるが、『敗戦』の故に彼の長所の全部を抹殺することには賛成しないものであり、この場合彼は、正当なる考慮に出たものとして敬意を表するものである」

 では、なぜ樋口は自らの進退を懸けてまで、ユダヤ人難民救出を決断したのか。そこにはやはり樋口の多彩な海外経験が大きな影響を与えていた。樋口は友である秦彦三郎(最終階級は中将)とソ連を旅行した折の経験を紹介する。

「かつて私が、秦と共に南ロシア、コーカサスを旅行して、チフリスに到った時、ある玩具店の老主人(ユダヤ人)が、私共の日本人たることを知るや襟を正して、『私は日本天皇こそ、我らの待望するメッシアでないかと思う。何故なら日本人ほど人種的偏見のない民族はなく、日本天皇はまたその国内において階級的に何らの偏見を持たぬと聴いているから』というのであった。

 これは一例であるが、私の過去ユダヤ人との交友において一斉に彼らの私を尊敬する理由が、そこにあったことを知るのであり、少なくも、日本国乃至日本人として排ユダヤ主義を奉ずる何ら理由なきことと信ずるものである」

 ゴールデンブックに自分の名前が刻まれたことについて、樋口は次のような本心を明かしている。

「(名前を)彫入される名誉に値するや否や、それは知らない。ただ日本人たるの矜持において、またその性情においてヒットラーのエゴイズムが私に認容されないだけであった」

「日本人たるの矜持」というひと言に、人道を重んじることにこそ日本人としての誇りがあるという、樋口の胸の奥の熱い志が感じられないだろうか。