ニッポン新潮流

怪童・中西太の人材育成

(にのみやせいじゅん)/スポーツジャーナリスト

二宮清純



非の打ちどころがないバッター

 世に名伯楽と呼ばれる野球の指導者は数多いが、ことバッティングにおいては中西太の右に出る者はいない。
 それは、これまで育てた選手たちの名前を挙げれば一目瞭然だ。若松勉、掛布雅之、石井浩郎、ラルフ・ブライアント、岩村明憲……。最近ではスワローズの田中浩康も教え子である。
 田中といえば六大学史上24人目の100安打を達成した好打者だが、プロ1年目は6試合、2年目は75試合の出場とプロの壁に悩まされていた。
 そんな時期に出会ったのが中西である。中西は開口一番、田中にいった。
「アウトローのボールをしっかり打て」
 アウトロー、すなわち外角低目のボールを打つためには、しっかりとボールを引きつけなくてはならない。そのためには体にぜんまいを巻くように内転筋を絞り、軸足に力を蓄えることが必要だ。
 そしてインパクトの瞬間、腰を素早くターンさせ、コンパクトにバットを振り抜く。中西は、このトレーニングを田中に繰り返しやらせた。
 これにより昨シーズン、田中は132試合に出場し、2割9分5厘という好打率をマークした。リーグトップの51犠打を決め、セ・リーグのベストナインにも選ばれた。
 そして今シーズン、田中はチームでただ1人全試合に出場し(6月22日現在)、3割1分6厘の高打率を記録している。一時はクリーンアップも任された。いまでは押しも押されもしないスワローズの主力選手だ。
 好調の理由を中西はこう説明する。
「軸足でためて、一本足で立つ形が決まりだしたでしょう。ボールを引きつけてシャープに振り抜いたときに、ためたエネルギーを一気に爆発させる。外のボールをしっかり叩けるようになったのがその証拠ですよ」
 中西の球歴については、あらためて説明の必要もあるまい。西鉄ライオンズ入団2年目の1953年、36本塁打、86打点でいきなり2冠王に輝く。首位打者の座はわずか4厘差(中西は3割1分4厘)で南海の岡本伊三美に譲ったものの、ニックネームの「怪童」ぶりをいかんなく発揮した。通算ではホームラン王に5度、打点王に3度、首位打者に2度輝いているが、このうち2冠王が4度もある。確実性とパワーと勝負強さを兼ね備えた非の打ちどころがないバッターだったということができる。
 しかし59年に近鉄の鈴木武に右足首をスパイクされ負傷、翌年には腱鞘炎を患い、全盛期は53年からの6年間と短かった。

「下手クソな選手と仲良く」

 王貞治(現福岡ソフトバンク監督)を育てた荒川博はかつて私にこういった。
「日本プロ野球で最強のバッターは誰かと聞かれたら次の2人。右の中西、左の王でしょうな」
 そして続けた。
「中西はあのデカイ体をものすごい勢いで回転させるから、打球が速いうえによく飛ぶ。文字どおりの大砲でしたよ。
 たしか昭和の29年か30年ごろ、オリオンズに有町昌昭というレギュラー格のショートがいたんですが、彼はライナーを足に受け“オレはあんなの捕る自信がない”といって辞めていったんよ。まあケタ違いの打球を打っていた。同じ右の強打者といっても、悪いけど長嶋(茂雄)とじゃ格が違っていたね」
 名選手名伯楽に非ず――。球界に限らずよく耳にする諺だ。
 しかし中西は違った。たしかに監督としては西鉄のプレイングマネジャー時代の1度しか胴上げされることはなかったが、コーチとして西鉄時代の後輩、仰木彬(故人)を支え、近鉄、オリックスで3度のリーグ優勝を経験した。私が思うに勝負師というよりも教育者タイプの人間である。
 いくつか“中西語録”を紹介しよう。
「僕はチームでいちばん下手クソな選手と仲良くします。進んでいる子はギャアギャアいわんでも、1人でやりますよ。ところが下手クソな子が上達すると、他の選手たちも私の意見に耳を傾けるようになる。だから下手クソとは仲良くせんといかんのです(笑)。
 西鉄の監督時代、三原脩さんがよういうてましたよ。『萎縮をさせたら、1人の兵士を失う』と。これはコーチが絶対にやっちゃいかんことですね」
「実績のあるベテランなら理論をひけらかしても理解してくれるかもしれない。でも本当はバッティングなんて余計なこといわなくていい。正しい打ち方ができるようになるまで一緒にやろうぜ。指導というのはこういうものなんです」
 75歳になったいまも、フラリと神宮球場にやって来ては若い選手を指導している。それが生き甲斐だといわんばかりに。「天職」をもつ人間は幸せである。