雑誌
ニッポン新潮流
日本柔道の野武士たち
(にのみやせいじゅん/スポーツジャーナリスト)
二宮清純
「柔道はケンカです」
北京五輪での柔道男子のメダル獲得数は柔道が五輪の正式競技に採用された1964年の東京大会以降、最少の2個に終わった。
その二個がいずれも金メダルだったのは日本柔道にとって救いだが、初戦、二回戦で負けた選手が五人もいたことには失望させられた。
金メダルを獲得した内柴正人(66キロ級)と石井慧〈さとし〉(100キロ超級)は、優等生タイプが多い柔道界にあって、どちらかといえば我の強い選手だ。いわゆる野武士タイプの選手である。
内柴についてはアテネで金メダルを獲るまで、柔道関係者以外で彼の存在について知る者はほとんどいなかった。期待もされていなかった。なぜなら66キロ級は世界の層が厚く、このクラスの金メダルとなると84年ロス大会の松岡義之(当時は65キロ級)まで遡らなければならなかったからだ。
金メダルを獲って急に脚光を浴びた。掌を返したように自らをヨイショするマスコミを前に、内柴は心の中でこうつぶやいたという。
「(オレのこと)何も知らねえくせに……」
4年後の今回は「オヤジの誇り」を懸けて戦った。アテネ後は不振に喘いだ。4歳の長男の前で、これ以上みっともない姿は見せられない。優勝直後のコメントが振るっていた。
「オヤジの仕事をやりました」
わが道を行くという点では石井も負けてはいない。
石井の柔道には「外国人の柔道を見ているようで日本人らしい美しさがない」との批判が付きまとった。
それに石井は猛然と反駁した。
「日本人らしい柔道って何ですか?」
「美しさを追求するなら体操でもやっていればいいじゃないですか」
「僕にとって柔道はケンカです」
あまりのビッグマウスぶりに眉をひそめる向きもあったが、重量級の泉浩(90キロ級)、鈴木桂治(100キロ級)が外国勢になすがままにされるなか、最後まで厳しい組み手を貫き通したのは21歳の石井だけだった。
「自分を貫くこと。誰に何をいわれようと、ヒールになろうと、自分のわがままを通したことが強さだと思う」
そして、続けた。
「日本王者は負けてはいけないと斎藤仁監督にいわれてきた。斎藤さんのプレッシャーに比べれば大したことはない」
愛弟子を評して斎藤全日本柔道連盟男子監督は「昔から異様に目のギラギラした男だった」と語ったことがある。内柴もしかり、ややもするとフテブテしく感じられるが、こういう男がいざというときには頼りになるのである。
“眼力”の確認
アトランタ、シドニー、アテネと60キロ級で3連覇を達成した野村忠宏は試合前、ある“儀式”を自らに課していた。
1つは家族からの手紙に目を通すこと。
野村はかつてこう語った。
「オヤジの手紙には“オマエは心・技・体のすべてが揃った素晴らしい選手に成長した”と書いてある。師匠からこれだけ認められると“オマエ、なに弱気になっているねん?”という気になってくるんです。
一方、嫁はんからの手紙には“近くで頑張る姿を見てきたから大丈夫。自信を持って戦ってきてください。そして子供たちに夢と希望を与える試合をしてください”と書いてある。読むと心が落ち着くんです。
でも、もらってすぐ読むと、また弱気のムシが顔を出してくるので、読むのは試合の3日前と前日の夜。そして選手村を出て試合会場に行く前。もう一度、目を通すことにしていました」
2つ目が“眼力”の確認――。
「試合前、トイレに行くのですが、そこにある鏡で自分の顔を見ます。まず顔を洗い、自分を奮い立たせるために、目にぐっと力を込めます。
戦う目をしているか、強い目をしているか、それを確認するんです。アテネのときは一度、鏡で自分の目を見ただけで“よし、行ける!”と思いました」
逆に“この目では不安だ”と思うときは?
「そういうときはもう一度、顔を洗い、顔を叩いて、わざと自分の顔をにらみつけます。そうして無理やり怖い顔を作り上げるんです。これは練習のときから意識するようにしています」
減量の失敗は論外として、今回、1、2回戦で負けた選手にメンタル面での脆さが感じられたのは「戦う心構え」ができていなかったからではないか。“柔道はケンカだ”というのは語弊があるが、そのくらいの闘争心がないと勝てないのも事実である。
北京五輪での柔道男子のメダル獲得数は柔道が五輪の正式競技に採用された1964年の東京大会以降、最少の2個に終わった。
その二個がいずれも金メダルだったのは日本柔道にとって救いだが、初戦、二回戦で負けた選手が五人もいたことには失望させられた。
金メダルを獲得した内柴正人(66キロ級)と石井慧〈さとし〉(100キロ超級)は、優等生タイプが多い柔道界にあって、どちらかといえば我の強い選手だ。いわゆる野武士タイプの選手である。
内柴についてはアテネで金メダルを獲るまで、柔道関係者以外で彼の存在について知る者はほとんどいなかった。期待もされていなかった。なぜなら66キロ級は世界の層が厚く、このクラスの金メダルとなると84年ロス大会の松岡義之(当時は65キロ級)まで遡らなければならなかったからだ。
金メダルを獲って急に脚光を浴びた。掌を返したように自らをヨイショするマスコミを前に、内柴は心の中でこうつぶやいたという。
「(オレのこと)何も知らねえくせに……」
4年後の今回は「オヤジの誇り」を懸けて戦った。アテネ後は不振に喘いだ。4歳の長男の前で、これ以上みっともない姿は見せられない。優勝直後のコメントが振るっていた。
「オヤジの仕事をやりました」
わが道を行くという点では石井も負けてはいない。
石井の柔道には「外国人の柔道を見ているようで日本人らしい美しさがない」との批判が付きまとった。
それに石井は猛然と反駁した。
「日本人らしい柔道って何ですか?」
「美しさを追求するなら体操でもやっていればいいじゃないですか」
「僕にとって柔道はケンカです」
あまりのビッグマウスぶりに眉をひそめる向きもあったが、重量級の泉浩(90キロ級)、鈴木桂治(100キロ級)が外国勢になすがままにされるなか、最後まで厳しい組み手を貫き通したのは21歳の石井だけだった。
「自分を貫くこと。誰に何をいわれようと、ヒールになろうと、自分のわがままを通したことが強さだと思う」
そして、続けた。
「日本王者は負けてはいけないと斎藤仁監督にいわれてきた。斎藤さんのプレッシャーに比べれば大したことはない」
愛弟子を評して斎藤全日本柔道連盟男子監督は「昔から異様に目のギラギラした男だった」と語ったことがある。内柴もしかり、ややもするとフテブテしく感じられるが、こういう男がいざというときには頼りになるのである。
“眼力”の確認
アトランタ、シドニー、アテネと60キロ級で3連覇を達成した野村忠宏は試合前、ある“儀式”を自らに課していた。
1つは家族からの手紙に目を通すこと。
野村はかつてこう語った。
「オヤジの手紙には“オマエは心・技・体のすべてが揃った素晴らしい選手に成長した”と書いてある。師匠からこれだけ認められると“オマエ、なに弱気になっているねん?”という気になってくるんです。
一方、嫁はんからの手紙には“近くで頑張る姿を見てきたから大丈夫。自信を持って戦ってきてください。そして子供たちに夢と希望を与える試合をしてください”と書いてある。読むと心が落ち着くんです。
でも、もらってすぐ読むと、また弱気のムシが顔を出してくるので、読むのは試合の3日前と前日の夜。そして選手村を出て試合会場に行く前。もう一度、目を通すことにしていました」
2つ目が“眼力”の確認――。
「試合前、トイレに行くのですが、そこにある鏡で自分の顔を見ます。まず顔を洗い、自分を奮い立たせるために、目にぐっと力を込めます。
戦う目をしているか、強い目をしているか、それを確認するんです。アテネのときは一度、鏡で自分の目を見ただけで“よし、行ける!”と思いました」
逆に“この目では不安だ”と思うときは?
「そういうときはもう一度、顔を洗い、顔を叩いて、わざと自分の顔をにらみつけます。そうして無理やり怖い顔を作り上げるんです。これは練習のときから意識するようにしています」
減量の失敗は論外として、今回、1、2回戦で負けた選手にメンタル面での脆さが感じられたのは「戦う心構え」ができていなかったからではないか。“柔道はケンカだ”というのは語弊があるが、そのくらいの闘争心がないと勝てないのも事実である。







