人名事典

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サトウサンペイ

 一九二九年大阪生まれ。京都工芸専門学校染色科卒。大丸大阪店宣伝課を五○年に退社。漫画に専念して六一年に上京。六三年から『漫画サンデー』に連載した「アサカゼ君」で人気を博す。

 『朝日新聞』を好きな人も嫌いな人も、なぜか「フジ三太郎」は好きだった。社説を読む人も読まない人も、まずは「フジ三太郎」に目を通した。

 六五年から始まった連載は、はじめは夕刊掲載だったのが七六年から朝刊になり(つまり、日曜も祝日も休むことなく)、九一年まで四半世紀以上にわたって続けられた。連載開始直後の六六年に文藝春秋漫画賞、終了直後の九一年には都民文化栄誉賞を受賞している。

 連載終了にあたって、宮尾登美子氏はこんな言葉を寄せた。〈私は通算すると十七年間も会社勤めをしましたから、サラリーマンの哀歓を代弁してくれる三太郎がとても好きでした。それにいかにも日本人らしい、あの五頭身。親近感がありましたねえ。繁栄の時代に、三太郎はボロな家に住んで、サエないサラリーマンのイメージをもち続けたでしょ。あれはサトウさんの、豊かすぎる世の中に対するおしかりだと受けとってきました〉(『朝日新聞』91年9月28日)。サラリーマンという言葉が懐かしい。

 自ら「キョロキョロ漫画」と呼んだ『フジ三太郎』は、絶えず世の中の動きに目を配りながら喜怒哀楽を庶民とともにする、ひとつの戦後史でもあった。

 最終回で、「幸福の黄色いハンカチ」を振りながら「上を向いて歩こう」を口ずさんだ三太郎の姿は、貧しくても、不器用でも、ひたむきに歩いた昭和ヒトケタ世代のサラリーマンの幸せと誇りを象徴しているようにも思える。

 「長い間、続けられたのは、天のおかげ、地のおかげ、人のおかげ、すべてのおかげ……。これからはすべてを大切にしまーす」と“退任のあいさつ”をした三太郎の生みの親は“定年”後もなかなか元気である。「絵日記」あるいは「絵っせい」と称して、世界を旅しながらマンガ入りエッセイを数々発表しつづけている。

 笑わせながら含蓄ある言葉でホロリとさせる卓抜な話法は、ますます健在のようだ。

 著書に『現代漫画全集サトウサンペイ』(筑摩書房)、『ドコカへ行こうよ』(文藝春秋社・新潮文庫)、『ドタンバのマナー』(新潮文庫)、『ドタンバの神頼み』(光文社刊・朝日文庫)、『フジ三太郎名場面』(1)~(19)(朝日文庫)、『夕日くん』(1)~(6)(朝日文庫)、『フジ三太郎旅日記』(朝日文庫)、『フジ三太郎愛蔵版』(朝日新聞社)、エッセー集『見たり、描いたり。』(朝日新聞社)、『パソコンの『パ』の字から』(朝日新聞社)ほか。

(データ作成:1997年)