人名事典

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広中平祐

(ひろなか・へいすけ)
 一九三一年山口県生れ。京都大学理学部数学科卒。米国ハーバード大学大学院数学科博士課程修了。米コロンビア大教授、ハーバード大教授、京都大教授を経て八八年に退官。九六年五月から第十代の山口大学学長。ハーバード大、京大両名誉教授。数理科学振興会理事長。

 十五人の兄弟姉妹のなかで育ち、在学中は予備校のアルバイトに打ち込んだという。当時から学生中心の数学者運動に積極的に関わり、大学院在学中に来日した代数幾何学者ザリスキの影響でハーバード大に移り、その後アメリカを舞台に活躍する。ハーバードの教授時代の七○年に「複素多様体の特異点に関する研究」で、数学のノーベル賞といわれるフィールズ賞を受賞。日本人としては小平邦彦以来、二人目の快挙だった。アメリカに流出した多くの学者とは違って、日米を股にかけ数学教育などにも尽力してきた。七九年からは私塾「広中教育研究所」を開いて中・高生を対象に数学教育に力を入れた。また「平等主義の強い日本の教育制度では数学の英才は育たない」と主張、数学留学生構想を発表して、八四年に(財)「数理科学振興会」を発足させた。

 「そこらの有名大学長と一緒にしないでほしい」。山口大学学長就任時の並々ならぬ決意と自信の言葉は、過去の輝かしい経歴に裏打ちされている。いずれノーベル賞を取る人間も出てくる、と教育者に立ち返って「最後の仕事」にかけるさまは、知的好奇心を触発しつづけたという亡母と郷里への恩返しでもあるようだ。 専門分野を離れた評論活動も活発で、時代の断面を論評するさまざまなキーワードには定評がある。「幾何学的発想」を掲げて国家や地球を論じたかと思うと、二十一世紀は、体と心がマッチした人間のよき伴侶となる機械を生み出す「シンテック」の時代と命名する。広中氏によれば、こうした機能のコンピュータが医学治療に応用され、ストレス解消にも役立つという。生活では「創才」。天才でも秀才でもない、自分なりの創造を伸ばす生き方を提唱する。

 日本で最も知名度のある学者の一人だろう。参院議員で元環境庁長官(細川内閣時)の和歌子夫人とのおしどりぶりもつとに有名。

 著書に『生きること学ぶこと』(集英社文庫、84年)、『人生は六十歳から』(共著、ダイヤモンド社、94年)、『心とコンピュータ』(共著、ジャストシステム、95年)などがある。

(データ作成:1997年)