人名事典

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本多勝一

(ほんだ・かついち)
 一九三三年長野県生まれ。千葉大学薬学部卒業後、京都大学農林生物学科に学士入学し、探検部で活躍する。その後、五八年朝日新聞に入社して、未開社会のルポルタージュで注目されるが、ベトナムの取材を機に政治的な問題にフィールドを移行。朝日新聞を退社。

 大きな転機となった『戦場の村』(朝日新聞社 六八年)は、『カナダ・エスキモー』『ニューギニア高地人』『アラビア遊牧民』(後にまとめて『極限の民族』朝日新聞社)の次に取り組んだテーマ。このルポルタージュで本多氏は日本ジャーナリスト会議賞、ボーン賞、毎日出版文化賞を授賞し、一躍「民衆側に立つ」ジャーナリストとして注目されることになる。

 その後、七二年の『中国の旅』(朝日新聞社)では、いまだに論争の対象となる南京虐殺三十万人説を報道。さらに『アメリカ合州国』や『殺される側の論理』(いずれも朝日新聞社)で、日本を代表するジャーナリストとしての地位を確立した。

 その議論の激しさは、イザヤ・ベンダサンとの論争や南京事件をめぐる論争で知られているが、最近ではノーベル文学賞授賞作家・大江健三郎氏との論争がある(『大江健三郎の人生』毎日新聞社)。

 なお、『日本語の作文技術』(すずさわ書店)は文章訓練を心がける者にとっての好著とされ、その事例の適切さは、評論家の呉智英氏も政治的な立場を超えて評価しているほどである。

 著作に『本多勝一著作集』(朝日新聞社)がある。

(データ作成:1997年)