第54回PHP賞受賞作

戦前、私の町の魚河岸では、「佐治衛門の仲直り」という戯れ言がおもしろおかしく流布していた時期があった。
意味するところは「もとより悪い状態にしてしまう」こと。けんかの仲裁に入ったはいいが、逆にこじらせてしまった伊東佐治衛門、これぞわが父である。

侠気に富んだ勇み肌、民謡や追分を愛し、酔って謡う山中節は聞く人の胸をうち、涙ぐませたとのエピソードも残した。
その気風をお客さんに愛されて、父の店は繁盛した。しかし、外では愛想がいい半面、家族には寡黙な人で、7人いる子どもの教育などは女房任せの無関心、子どもは嘘と盗みをしなければそれで十分といったふうだった。
そんな父だが、一度だけ、人間として大切な教訓を叩き込まれたことがあった。
その教訓は、終世忘れ得ぬ戒律として、今日まで75年余、私が牢固として遵守に努めてきたことでもある。

約束は借金と同じだ

昭和14年、小学5年生の初夏のこと。
私は少年時代、他に取柄はなかったものの、絵を描くことだけはダントツの技量をもち、その力は校内随一を誇っていた。
ある日、「丹下左膳」の似顔絵をノートに描いていると、多くの友だちから「オレにも描いて」と頼たのまれてしまった。

当時は、まだ重苦しい戦時色を感じることなく、少年たちの最大の関心事は「丹下左膳」で、みな、その雄姿に憧れた。
チャンバラごっこでも、ガキ大将が左膳に扮したものだ。私などは捕り方で「御用、御用だ!」と左膳を取り囲み、最後は斬られてしまう役だったが。
生来の凝り性だった私は、さっさと描いて「はいよ」と渡せばいいのに、得心するまで何度でも描き直した。その上、同じ絵柄では自尊心が許さず、1枚1枚、異なるポーズをつけたので、手間のかかることかかること……。
しだいに、タダで描いてやるのもばからしくなり、こんな交換条件を出すようになった。

「増田屋のキンツバ一個、もってこい」

この増田屋のケースに並ぶ和菓子は子どもの手が届かない高級品で、一個5銭、じつに小遣い3日分に相当した。

それからはキンツバをくれた順に、左膳の絵を描いてあげていたが、ひとり、裕ちゃんという子の絵は後回しにした。
裕ちゃんは温和で腕力も弱そうだったので、後回しでもいいだろうと甘あ まく見たのだ。
ある日、そんな私にしびれをきらした裕ちゃんが、怒って下駄を脱ぎ、それをふりかざして殴りかかってきた。
私は自分に非があるから最初から戦意喪失で、コテンパンにやられ、目は腫れ、タンコブがいくつもできてしまった。

その日の夜、帰宅した父に、その顔を咎められた。

「どうしたえ、その面ァ?」

真実を話さざるを得ない状じょう況きょうへ追い込まれ、事の次第をポツリポツリと話すと――いきなり「バカヤロー!!」と一喝され、ふうっ、と一息入れると始まったこの説教。

「いいかお前な、描いてやるって約束しちゃったんだろ。キンツバまでせしめやがって。約束したってことは借金したってことだ! 必ず返すものなんだ!」

父は、そばへ寄ったら張り倒されそうな、閻魔のごとき形相だった。こんな父は今まで見たことがなかった。

「いったん約束したらぜったい守りきれ! もし果たせねえ約束だったら最初っからするな!!」

この言葉は、11歳の私にも説得力のある道理であった。そうか、借金と同じか。それは天の啓示のごとく、心に突き刺さった。
長じてから振り返ると、実際の場面を捉えて生きた教育をした、父の愛情を強く感じる出来事でもあった。

父の教えを守り続けたい

後年、私は教職に就つ いた。
「先生」として、他の徳目には欠ける面が多くあったものの、「約束」だけは、守りきる信念と実践力を己れに課し、そのための努力を怠ることはなかった。
周囲からも「アイツは約束を反故にしない男だ」と評価は高く、信頼や尊敬も得ることができた。

しかし、時には煙けむたがる人も多くいたことだろう。
良好な人間関係を保つには、正論だけでは通用しないことも勉強した。
一方で、こんな私を見込んでくれた生涯の盟友とも出会うことができたのは大きな喜びであり、財産となった。
今も私はたった一度の父の教えを金科玉条として実行し、自らを戒めている。

伊東静雄(静岡県沼津市・無職・88歳)