ぼくの55年の経営体験、また修業時代の生活体験から自然に生み出した考え方、それが人に「松下哲学」といわれたりしているわけです。あくまで実践が生んだもので、頭の中でこうやって、ああやってと体系的に組み立ててひねり出したものではない。

 いったいにぼくの考え方は、すべて体験というもののひらめきから出ている。ひらめきがいいか悪いか別として、自由な発想ができるということですな。それが結局、悪くなかったんですわ。ひらめきに、自らがこれから実行しようということの正当性を見出す。すると、他人がいかんということでも、反対のほうに向かって進む力が湧く。そういうひらめきに助けられたことが再々ありました。

 大正14年に日本でラジオ放送が開始され、ラジオ受信機が各家庭で普及し始めたのに伴って、松下電器でも昭和6年にラジオを開発、いよいよこれから大いに生産、販売しようとしていた昭和7年のことです。

 昭和7年に松下幸之助は産業人の真使命を感得、使命を知ったという意味でこの年を創業命知第一年としたのを機に、松下電器は新たな発展段階に入ります。日々注文が増大し、大開町の工場では応じ切れなくなったため、本格的な大工場の建設が必要になってきました。

 幸之助は、大阪市内で土地を得ようとあちこち探したのですが、ここはと思うところが見つかりません。そこで、結局、大阪市の北東郊外に位置する大阪府北河内郡門真村(現・門真市)に、新本店と工場を建設することにしました。河内名産のレンコン畑が広がる田園地帯にあるこの土地は、以前、区画整理がすんで売りに出されたのを、幸之助が、従業員教育の施設をつくるために入手していたものでした。

 ところが、大阪から見て門真は北東、「鬼門」にあたります。当時は世間一般の考え方として、そうした鬼門ということについては非常にやかましくいわれ、「方位の悪いほうへわざわざ行くなんて、やめたほうがいい」と忠告してくれる人もありました。

 幸之助自身、"言われてみればそうだな。これは困ったぞ"と、迷いが生じてきました。"鬼門だからといって門真への進出をあきらめるのはいかにも残念だ。将来の発展を考えても、何としても門真進出を果たして生産体制を整えたい。しかし、鬼門だということもやはり引っかかる"。

 あれこれ考えているうちに、幸之助の頭にフッとひらめくものがありました。

 「北東が鬼門なら、南西から北東にのびる日本はどこに行っても鬼門ばかりではないか。そんなことを気にしていたら、日本国民はみんな日本の国から出ていかなければならなくなる。そんなバカなことはない。だからもう気にせんとこう」

 こうして幸之助は門真への進出を改めて決断し、昭和8年7月、松下電器は総面積7万平方メートルの土地に新たに本店と工場を建設、事業の拠点を移したのでした。以後、松下電器はこの地を本拠として、世界的企業へと成長していくことになるのです。

(月刊「PHP」2009年11月号掲載)

松下幸之助とPHP研究所

PHP研究所は、パナソニック株式会社の創業者である松下幸之助が昭和21年に創設いたしました。 PHPとは、『Peace and Happiness through Prosperity』の頭文字で、「物心両面の調和ある豊かさによって平和と幸福をもたらそう」という意味です。

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