松下電器が今日なぜこれだけ発展したかと申しますと、私はこれはあえて言っていいと思うのでありますが、松下電器は人々を生かして使ってきたといいますか、人々の才能を十分に発揮してもらったということがいえるのです。

 小さい業態のときにおいても、またそれから進んで、たくさんの従業員を擁するようになったときにおいても、つとめてその人の創意工夫というものを中心において仕事をしていこうということでやってきた。単に命令や指導、指示だけで仕事をしようという意思はもっておらなかったのであります。

 この"人を生かして働いてもらう、その人の創意工夫に任す"という伝統というものは、少なくとも私は、永遠に生きていくものだと思います。

 門真地区で新たに建設を進めていた本店と工場が間もなく完成するという昭和8年5月、松下幸之助は機構改革を行い、事業部制を実施します。

 それは工場群を3つの事業部に分け、ラジオ部門を第一事業部、ランプ・乾電池部門を第二事業部、配線器具・合成樹脂・電熱器部門を第三事業部とし、各事業部を製品の開発から生産、販売、収支の管理まで一貫して担当する独立採算の事業体にするというものでした。そして、それぞれの分野でしかるべき人を選んで事業部長に任命、経営のいっさいを任せたのです。当時、事業部制は、アメリカではゼネラルモーターズやデュポンですでに導入されていましたが、日本には前例がなく、きわめて画期的なことでした。

 幸之助が事業部制を採り入れたのは、次のような理由からです。会社が小規模のうちは幸之助一人の采配でこと足りたのですが、業容の拡大に伴って新たな仕事が増え、処理しなければならない問題が非常に多くなってきました。製品の種類も多岐にわたるようになり、幸之助自身がすべてを見ることができなくなってきたのです。また、身体が丈夫ではなかった幸之助は、体調を崩して休むこともたびたびで、部下が判断を仰ごうとしてもできないため、仕事がスムーズに進みにくく、能率が減退するということもありました。

 そうしたことから事業部制に踏み切ったわけですが、その結果、事業部の経営を任された人はみな意気に感じ、自らの能力と創意を十二分に発揮して取り組んだといいます。熱心に仕事を進めていく事業部長の姿を見て、部下の働きも一段と力強くなり、事業部制の導入は、松下電器のさらなる発展の大きな原動力となったのでした。 幸之助は後に、「人間は責任を与えられ、仕事を任されると、自分なりの創意工夫を働かせてそれを遂行していこうとするものだ。だから指導者は、大綱をつかみ、基本的な方針を示したうえで、あとは部下の人々に責任と権限を与えて自由にやらせるのが望ましい。それによって、それぞれの人の知恵が発揮され、全体として衆知が集まって仕事の成果もあがってくる」と述べています。

(月刊「PHP」2009年12月号掲載)

松下幸之助とPHP研究所

PHP研究所は、パナソニック株式会社の創業者である松下幸之助が昭和21年に創設いたしました。 PHPとは、『Peace and Happiness through Prosperity』の頭文字で、「物心両面の調和ある豊かさによって平和と幸福をもたらそう」という意味です。

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