小さなころから、「自分は運が悪い」と思っていた笹本さんが、103年間の人生を振り返ってみて思うこととは――。

笹本恒子(報道写真家)

1914年、東京生まれ。日本初の女性報道写真家。日独伊三国同盟から60年安保闘争など、戦中・戦後の歴史の節目に立ち会い、昭和史を彩る人々にもカメラを向けた。2011年には吉川英治文化賞、2014年、第43回ベストドレッサー賞・特別賞、2016年に、米国のルーシー賞を受賞。

* * *

私は大正3年生まれの103歳です。女性が職業を持つことなど、とんでもない時代に生まれましたのに、いろいろな方とのご縁で、日本で初めての女性報道写真家として活躍することができました。人さまから見たら、運が強いのかもしれません。でも自分では「運がいい」と思ったことは一度もないんです。

私は兄一人、弟二人の男ばかりの〝紅一点”です。でも、兄たちは美人の母に似て色白でハンサムだったのに、女の私だけが父親似で、色は真っ黒、顔はまん丸でお多福みたい。兄からはいつも「黒ツネ」とからかわれて、こんな顔に生まれた自分は、なんて運が悪いんだろうと、いつも思っていました。

ただ自分の悲しみやコンプレックスは外に出さずに、いつもニコニコしていることが多かったと思います。それは父の影響でもあるのです。父は銀座の老舗呉服問屋の社員でした。いつもニコニコしていたので「仏の清さん」と呼ばれていたほど。私がニコニコしているのも、父から教わった癖だと思います。

悲しいときに悲しい顔をしても、ますます暗くなるだけ。つらくても明るくふるまっていたら、楽しいことや幸運もやってくる。そう思って生きてきました。

人が運をつれてくる

私は持って生まれたお多福顔のせいで、いつも楽しそうに見えるみたいです。進学した高等女学校では、みんなの人気者になって、「友達大臣」とあだ名がついたくらい。

おかげで知り合いが多く、そういう方がご縁を持ってきてくださり、ずいぶんと助けられました。新聞社で挿絵描きを始めたのは、実家の離れに下宿していた新聞記者の方とのご縁です。そのあと報道写真を撮るようになったのも、その新聞社とのつながりです。

結婚を機に、新聞社の仕事は一旦やめてしまったのですが、戦後、疎開先の千葉で地方新聞に記者として再就職します。この仕事も、疎開先の道ばたで偶然再会した知り合いから紹介されたものなのです。

それはちょうど東京大空襲で、大久保に新築したばかりの家が焼けてしまったときでした。疎開先の千葉から東京湾ごしに東京方面が見えるんです。空がまっ赤になって、その火が左から右へだんだん移っていく。夫が「ああ、もう新宿あたりも燃えているね」と言ったのを覚えています。

せっかく建てたマイホームが燃えてしまって、精神的に落ち込んでいたときに新聞社の仕事が見つかったのですから、運は人がつれてくるというのは本当ですね。

あきらめず、道を探し続ける

そのうち私の仕事が忙がしくなって、夫と離婚してしまいました。とてもいい人だったのに、私のわがままで別れてしまった。それが、人生最大のミステイクだったと今も思います。

その罰が当たったのか、離婚後はつらいことばかりでした。撮影料を持ち逃げされたり、人間関係で悩んだり……。死にたいと思ったこともありましたよ。でも病弱な弟がいたので、彼を残しては死ねない。自分のためではなく、弟のために頑張れたのだと思います。

写真家としては、マッカーサー元帥、川端康成、室生犀星など、そうそうたる人たちを撮る機会に恵まれました。どこに行っても、何が起きるかわからないワクワクが楽しかったですね。

でも、さすがに60代になると、体力的な問題もあって、写真の仕事も減ってきます。

そのまま引退される方もいると思いますが、私はまだまだ生きがいを見つけたかった。それでフラワーデザインをしたり、オーダーメイドの洋服やアクセサリーを作ったり挑戦を続けました。一時は六本木や青山のお店に作品が並んだこともあったんですよ。

人生は登山のようなもの。この道が行き止まったら、また別の道を探せばいい。どんな小さな道でもさがして、あきらめずに頂上をめざして登り続けていれば、必ず道は続いていくと思っています。頂上に何があるのかわかりません。でもきっと、何かワクワクして楽しいことが、必ず待っているような気がする。

だからあきらめずに登るんです。努力してさがし続けていると、道が開ける。その道のことを「運」というのではないでしょうか。

※本記事は、月刊「PHP」2018年4月号特集《運は必ず強くなる!》より転載したものです。