第66回PHP賞受賞作

浜崎実和

福岡県・無職・42歳

新卒の社会人として1人暮らしを始めたころ、トートバッグに花柄の手帳を入れて持ち歩き、この手帳をキラキラした予定や日記で埋め尽くしたいと思っていました。
しかし現実は厳しく、私は体の揉みほぐしをするボディセラピストの仕事をしていましたが、1日の拘束時間が12時間という激務に追われて、仕事から帰ると倒れるように寝てしまう日々を送っていました。
せっかく買った手帳には、ただ仕事の予定と「仕事がつらい」という愚痴ばかりが書かれていました。そんな私にも、1つだけ楽しみがありました。
それは、休日に少し離れたショッピングモールに買い物に出かけることです。薄給で高価な品物は買えなかったのですが、そのショッピングモールはいつも人でにぎわっていて、見て回るだけでも明るい気分になったのです。
そんなショッピングモールに静かな一角がありました。
みずみずしい観葉植物の隣に、チョークで「本日のコーヒー」と書かれた看板が出ています。店先のショーケースには、チョコレートやイチゴ、クリームといった色とりどりのケーキが並べられています。
店内からはビートルズの音楽が流れてきて、いかにもレトロでおしゃれな感じがします。もちろん、コーヒーの香ばしい匂いは、飲む前から絶対おいしいとわかるくらいでした。

心を癒やす空間の演出

この喫茶店でケーキセットを食べながら手帳を書くのが、私の休日のささやかな楽しみになりました。
家で1人思いを巡めぐらせてもネガティブな言葉しか浮かんできませんが、この喫茶店でおいしいコーヒーを飲んでいると、みじめさから解放されて、前向きな気分になれるのでした。
この店の店長は明るく気さくで、いつもウェイターに混ざっててきぱきと働いていました。愛想は抜群にいいのですが、決して馴れ馴れしいところはなく、私のように人づきあいが苦手な客でも長く通えるお店でした。
つらいとき、なんとかやり過ごせたのは、たまに行くこの喫茶店のおかげだと思っています。心が弱くなっているときは、人と会話することで余計に疲れてしまうものです。そんなとき、何も言わずに受け入れてもてなしてくれる喫茶店というのは、心を整えるのにうってつけの場所でした。
趣味のいい店内は、来た人の心を癒やすことができます。この喫茶店にも、背の高い観葉植物や壁にかかったモダンな絵画、棚に並べられた店長自慢のレコードジャケットなど、おしゃれなものがたくさんあって、ちょっとした隠れ家のようでした。
こんなふうに空間の演出に気を配れば、言葉がなくても人の心を解放し、潤いを与えることができます。

喜びであふれるようになった手帳

私もそんなお店に感化されて、ボディセラピストの仕事でちょっとずつ空間の演出を取り入れるようになりました。
お客様が寝そべるベッドがある部屋の照明の色合いを柔らかくしたり、飽きられないように店内のBGMやアロマディフューザーのオイルをこまめに変えたり、お花や置物に季節感を取り入れたりと工夫しました。
予算の都合もあり、できることは限られていましたが、自分の手で工夫をこらして美しいと思える空間を作り出すのは楽しいものです。それがお客様に喜んでもらえるなら、なおさらです。
お客様に体の疲れをとってもらうだけでなく、心の疲れも癒やしてもらうことに、私は仕事のやりがいを感じるようになりました。
いつしか私の手帳は仕事のアイデアで埋め尽くされ、先輩や上司から褒められた喜びがつづられるようになりました。1年が過ぎたころにはリピーターのお客様も増え、その次の年には本社からその店舗を任されるようになりました。
もうあの喫茶店の店長は引退し、お店もなくなってしまいましたが、20年近くたった今でも、あの喫茶店をありありと思い出せます。店長と私は大した会話はしませんでしたが、今も私のあこがれの店長であり、あの喫茶店は私の理想郷なのです。

月刊「PHP」最新号はこちら

定期購読はこちら(送料無料)