月刊「PHP」2018年10月号 裏表紙の言葉

日本人の集団の意思というものは、時に偶然に醸し出された場の“空気”によって支配されることがある。

たとえば、学校や職場でしばしば見られるいじめの発生もそうであろう。いじめる人といじめられる人が存在し、そして、そこにいじめを見ている多くの人がいる。

見ている人たちの心中には葛藤がある。いじめは反対、けれども告発して、自分がいじめられる側に回るのはいやだ。ならばいじめる側になるか。いやそれもできない――。

そうしたそれぞれの葛藤が、結局、傍観者でいようという決断になれば、いじめを許容する空気が生じるわけである。

日本人は物事を決める際、互いの顔色を窺い、あるいは事前に根回しをして事をスムーズに運ぼうとする。KY(空気が読めない)という言葉がはやったのも、老若問わず、総意に従うのを是とする心情からであろう。

それは悪いことではない。だが、人として望ましくない空気には、あえて空気を無視し、あらがう人が必要なのではないだろうか。それが自分である勇気を持ちたい。