第55回PHP賞受賞作

小野寺典子
(北海道札幌市・大学非常勤講師・62歳)

50歳のとき、久々に迷子になってしまった。

駅構内にある交番に入り、必死で訴えた。

「カイン、ドイチュ、ウント、エングリッシュ」

丸暗記した、怪しいドイツ語だった。「ドイツ語も英語も出来ないんですが」という意味だ。

警官は目を丸くして私を見た。そして両手を挙げて、首をブルブルと横に振った。

(じゃあ、自分で何とかするしかないね)

正にそんな表情だった。

仕方ない。うろ覚えの電車の色を思い出して2度乗り換え、空腹と心細さに耐えて、ホームステイ先の家にやっと辿り着いたのは、夜の9時を過ぎていた。

自力でホームステイ先にすら戻れなかったら、この先数カ月続くこの土地での暮らしで、きっと何の成果もあげられない……。
 

「人生は一度きり」と心が叫んだ

今から12年前、ライフワークの音楽の資料を探すため、私は地球の裏側に飛び立った。

ある日、偶然見つけた新聞の夕刊の記事に目が釘付けになったのがきっかけだった。

「3カ月の文化研修生募集。年齢の上限ナシ。渡航費、学費、生活費全額支給」

(よく聞く財団名だ。怪しくはない。ヨシッ)

早速、友人に話すときっぱりひとこと。

「こんなこと言ってごめんね。でも、あなたには絶対に無理だと思う」

他人はどうあれ、自分がGOサインを出さないと、1ミリも物事は進まない。

幸い、最低条件の第二外国語は、学生時代に単位を取得。小論文や面接もあるが、縁があれば何とかなる。このチャンスの波に、今乗らないと次はいつ来るかわからない。私はもう半世紀も生きてしまった。人生は一度きり。その心の叫びの方が勝っていた。

奇跡的に1次、2次に合格し、3次の面接の朝、母が真顔で言った。

「あなたが見知らぬ外国の街の電車通りを歩いている夢をさっき見た。きっと行くことになると思う」

ますます、心に火が着いた。

遂に面接。扉をノックして開けると、ズラリと5人の面接官が座っていた。

そのうちの1人が無表情で言った。

「大変、失礼な質問とは思うのですが、なぜ、その年齢で留学したいのですか」

まったく想像もしなかった、初歩的な質問に慌てた。すると、「君、そんな質問をなぜ、今さらするのかね。彼女は、やりたいことがあったから応募して、今、ここにいるのです。やりたいことと理由でも聞いたらどうですか」

面接官の1人が、明らかに私にエール(?)を送ってくれていた。
 

年齢こそが人生の勲章だ

3日後、合格通知が届いた。

が、嬉しさよりも、合格したのが同情によるものだったらイヤだなぁと思ってしまった。

留学直前に合宿があった。

私とともに合格した、若い10人の留学生たちに混じって参加した。

夕食会でどうしても事の真相が知りたくて、あの面接官の年輩の男性の席の近くに座った。

「あの、どうして私が選ばれたのでしょうか」

ビクビクして聞いた。

その人は、ビックリした表情をしたが、すぐに笑って、こう応えてくれた。

「余計な心配はいりませんよ。コンピューターに、あなたを含めた他の応募者の情報を全て入れて、上位、11名を取った。その上位のグループにあなたが入っていた。ただ、それだけのことです」

「わかりました。でも、なぜ、あの時に私のフォローをしてくださったのですか」

「これからの日本は、中高年が支えなければならない。この国は世界でも例を見ない高齢社会に突入します。あなたには、その中高年の希望の星のひとつになって欲しいと思ったのです。やりたいことを、年齢のせいで断念しない人だから、今回、チャレンジしたのでしょう」

だから、留学初日の迷子に負ける訳にはいかなかった。他にも、アジア人というだけでスーパーで万引犯に間違えられ、ホームステイ先のマリーさんが倒れて引越しを余儀なくされても、ピンチはチャンスだと信じきることができた。

若い人とは違う、多くの失敗も含めた人生経験が私にはある。助言をくれた面接官と出会えたおかげで、年齢こそが輝く人生の勲章だと気づくことが出来た。

不思議なことに毎年、1つ年をとるごとに、あのときの励ましが、心の中でますます大きく聴こえてくる。