第56回PHP賞受賞作

阿部廣美
(静岡県焼津市・講師・54歳)

私は中学校を卒業すると、集団就職で東京に出た。昼間は板金工場で働き、夜は定時制高校に通った。しかし元来、勉強嫌いな性分、学校へ行っても楽なほうへ流され、非行グループに加わって問題ばかり起こしていた。

そして2年生の夏、大きな過ちを犯してしまい、施設に入った。約2カ月間、朝6時起床、夜は9時半消灯、部屋にはテレビもラジオもなく、毎日ひたすら反省文を書かされ、午後は運動と作業で汗を流した。

作業は木工実習が主で、本箱や椅子などを作った。そのときの講師は、K先生という、体格のいい、ちょっと強面の、いかにも職人という感じのオジさんだった。

時間や挨拶にはとても厳しく、作業中少しでも手を抜けば大声で叱られた。ただ、作品の出来栄えよりも、取り組む姿勢や心配りを特に評価してくれた。失敗しても挑戦する熱意をほめてくれた。怖い先生だったが、心の優しさに、私は人間的な魅力を感じていた。

2カ月が過ぎ保護観察になり、埼玉の伯父さん宅に引きとられた。学校は退学処分となり、就職もできずに毎日家でぶらぶらしていた。農家の手伝いやビル清掃のアルバイトをしたが、長続きはしなかった。また昔の弱い自分に戻ってしまうのではないかと、自暴自棄になりかけていた。
 

頭から離れない親方の言葉

そんなある日、K先生が家に訪ねてきてくれた。先生は関東では有名な宮大工の棟梁であることをはじめて知った。私は迷わず弟子入りを志願した。新しい自分に生まれ変わろう。

今まで迷惑をかけてきた母に親孝行しよう。

私は固い決意で宮大工の修業の道に入った。

しかし、住み込みの修業は、想像していたよりもはるかに厳しく辛いものだった。まだ暗いうちから起きて清掃、洗濯、その日の仕事の段取りをして現場に向かう。

1年目は、木に触らせてさえもらえなかった。明けても暮れても道具の手入ればかり、ひたすら鑿(のみ)や鉋(かんな)の刃を研いだ。刃先が砥石に吸い付いて立つくらい一心に研いだ。

現場から戻ると、深夜まで下小屋の工房で廃材を使って墨付けの練習をし、その日の反省と日報を書いて親方に提出する。親方の部屋の灯りは私より先に消えることはなかった。日報には必ず親方からのコメントがあり、そこには、ある言葉が口癖のように書かれていた。

「宮大工になる前に人間になれ!」

最初はこの言葉の意味がよくわからなかった。“人間になれ”ってどういうことなのだろう。昔の自分を知っている親方、横道に逸れずに真っ当な人間になれ、ということなのだろうか……。20歳そこそこの未熟な私に、親方のこの言葉の深い意味などわかる由もなかった。でも、この言葉が頭から離れることはなかった。親方の生き方を見ていればきっとわかる。そう信じ、いつも仕事に向かった。
 

人を喜ばせる生き方こそ、真の幸せ

宮大工の仕事にも慣れ、やっと4年が過ぎようとしていた。秋雨の降る肌寒い日だった。屋根の足場から転落して全治6カ月の重傷を負ってしまった。2度の手術は成功したものの、自力では歩けない体に、もう失望しかなかった。

それでも何とか再起しようと、一縷の望みをかけて懸命にリハビリに励んだ。毎日5、6時間の辛いリハビリは自分との闘いであった。

親方は、現場の帰りに毎日のように病院に来てくれた。「ヒロ! ゆっくり治せ、焦らなくていいぞ。ケガは心を鍛える試練なんだ。自分に克て……」。病人に寄り添う親方の励ましは嬉しかった。親方も若いとき、事故で左下肢を切断し、義足であることを打ち明けてくれた。

「この人は、なんてすごい人だろう」

あらためて宮大工棟梁の気迫を感じた。

8カ月の入院生活を終え、家に帰った。しかし、車椅子に頼る体では、とても宮大工に戻ることはできなかった。

悩んだ。俺に未来なんてあるだろうか。不安ばかりが募った。懐かしく昔の日報を見た。

「宮大工になる前に人間になれ!」か……。

ふと思った。そうだ、現場に出られなくたって宮大工の仕事はある。組子やレリーフの制作は工房でもできるし、設計の仕事だってある。目も、耳も、手も使える。暗闇に一筋の光が見えてきたような気がした。

修業時代の経験が活きたのか、工房での仕事は面白く、夢中になって打ち込めた。また、親方の勧めで4年間学校へ行き、実習教員の免許も取った。今は宮大工養成学校で20人の生徒たちに古建築を教えている。

人を教える立場になって人生観が変わった。

新しい自分の発見の毎日だった。受ける喜びから与える喜びに生き甲斐を感じた。

人のために役に立つ人間、人を喜ばせる生き方こそ、人生の真の幸せかもしれない――。

親方がいつも言っていたあの言葉の答えが、やっと見つけられたような気がした。