第57回PHP賞受賞作

石井 亨
和歌山市・医師・76歳

私は和歌山県の北部、高野山の麓、紀ノ川沿いの小さな田舎町で育った。
当時、この町は織物業が盛んだった。町中どこへ行っても織機の音が「ガチャンコ、ガチャンコ」と毎日響き渡り、活気に溢れていた。
私が中学校へ入学した時の担任のY先生は、若くて、独身。まだ教師になったばかりで、毎日、隣の町から汽車で通勤されていた。
担当教科は数学。教え方が上手で、数学の苦手な生徒にもわかりやすいと評判だった。
野球部の指導もされており、放課後は部員に遅くまで熱心にノックを打っていた。
クラス対抗の野球大会の時、私はバッターボックスに入る前、先生に呼ばれ「ホームベースの近くに立って背をかがめるように」と指示された。
小柄だった私に対し、相手ピッチャーは投げにくかったようで、そのためコントロールを乱し、フォアボールで出塁できた。野球大会でも先生の的確な指示で、私達のクラスは勝ち進むことができた。
私は3歳で父を亡くし、男兄弟3人の末っ子として生まれた。我が家は貧しかったが、母の愛情を受けて育てられた。当時は、どこの家庭も裕福ではなかったが、母子家庭の我が家は、特にひどいものだった。
幼くして父を亡くしていた私は、いつの間にか「大きくなったら医者になりたい」という夢を持つようになっていた。Y先生はそんな私に「君なら大丈夫 。頑張ったら、きっとなれる」と、いつも励ましてくれた。

一人ひとりに合わせた指導をする

当時の先生方は、自分の考えを強く主張されることが多かったが、Y先生は自分の考えを余り生徒に一方的に押しつけることはせず、生徒一人ひとりの性格や考えに合わせた指導をしてくれた。
先生の趣味は写真を撮ることだった。当時は、まだカメラを持っている人は少なかったが、遠足の時には必ず自分のカメラで写真を撮ってくれ、全員に配ってくれた。
ある時、隣町の先生の家に母と伺ったが、その時も自慢のカメラで私達を撮ってくれた。
後年、先生にその時の写真を見ていただいたが、「そんなことがあったかな?」と大変懐かしそうにされていた。「何よりも、君がこの写真を今も大切に持ってくれていたことが嬉しい」と大変喜んでいただいた。
中学3年間、持ち上がりで担任をしていただき、卒業と同時にしばらくは先生とお会いする機会はなかった。
私が医師になり、やがて43歳の時、和歌山市内で内科診療所を開業することになった。市内で結婚されていた先生は、その頃もまだ教師として勤務されていた。
久し振りに先生にお会いしても、昔の若々しい姿は変わっていなかった。
やがて先生は退職され、私の診療所で定期検査を受けてくれるようになった。いつもその結果を渡す時、私が「優秀な成績でした」と言うと嬉しそうに笑っておられた。
ある時、私達の同窓会に出席していただいたが、受付の同窓生の一人が先生に向かって、「君は誰だったかな?」と生徒と間違えて聞いてしまった。
先生は「生徒と間違われるほど、若く見えたのかな?」と上機嫌になり「特に今日の酒はうまい」と言って、いつもよりたくさん飲んでおられた。

魔法の言葉のおかげで頑張れた

さすがの先生も、年齢と共に検診で少し異常が見つかるようになり、晩年は自宅近くの病院にかかるようになっていた。
そんなある寒い日の朝、先生の奥様から、先生が急に亡くなられたとの知らせをいただいた。不思議と私の頭には、いつもの若々しい先生の姿しか思い浮ばなかった。そして最期をお世話できなかった自分を悔やんだ。
後日、私は田舎へ帰った折、当時の中学校を訪ねてみた。
町内の3つの中学校は既に一カ所に統合され、私達の校舎はなくなっていた。残された敷地は変にだだっ広く感じられ、運動場の片隅では数人の高齢の方がゲートボールを楽しんでいた。
校庭の一角には、大きくなった一本のざくろの木に、真っ赤な実がいくつもはじけていた。それはまるで、一粒一粒のざくろの実が、自分の目標に向かって歩み、学舎を巣立っていった一人ひとりの生徒の姿のように、私には思えた。
Y先生の魔法の言葉、「君なら大丈夫。頑張ったら、きっとなれる」。先生の大勢の教え子達は、この言葉によって励まされ、頑張ることができました。
Y先生、本当にありがとうございました。