第五十八回PHP賞受賞作

田中しづ子(山口県防府市・主婦・六十九歳)

 

母が亡くなって、はや半年が経った。初盆をむかえ、きょうだいで仏前にそろい、隣のお寺の住職にお経をあげてもらった。
近頃、やっと、静かな気持ちで、母の思い出をたどることができるようになった。
九十四歳の母を見送るとき、覚悟していたつもりだったが、別れに動揺した。
認知症になり、子どものような言動をするようになった母に、最期までできる限りのことをしてあげたかった。迫りくる別れを不安に思いながら、娘の私に何ができるかを必死に考えていた。
今では、そんな母との最期の時間も、穏やかな気持ちで思い出すことができる。
母のことを思い返すとき、私の心に浮かぶ言葉がある。
「あんたは生まれたとき、すごくかわいかった。髪の毛が黒々として、日本人形のような顔をしていたから、助産師さんが『なんてかわいいお嬢ちゃん』と驚いていたよ」
そう言ったときの母の表情は、若い頃のものも、老いた頃のものも思い出せる。何度も同じ話をしていたからだ。いつの頃も母の表情は、子を生んだ母として、誇らしく、うれしそうだった。優しい目で私を見ていた。

祖母と母の優しい思い出

幼い頃、祖母が教えてくれた。母は妊娠したとき、楊貴妃のものだと言い伝えられているお墓にお参りしたのだ、と。
「妊婦さんがそこにお参りすると、楊貴妃のように美しい子が生まれる、という言い伝えがあるんだよ。しづ子ちゃんは、母さんがお参りをしたから、かわいく生まれたんだよ」
祖母も、母を産むときは、やはりそのお墓にお参りをしたとのことだった。この土地の
女の人は、代々そうして美しい子が生まれるように願ってお産をむかえたらしい。祖母は誇らしげに、こう言っていた。
「母さんもきれいでね、十八歳の頃、どこのお嬢様かと、人が振り向くほどだったよ」
やはり祖母も、うれしそうな、優しい目をしていた。
娘として「かわいい子」と言われて、こんなにうれしいことはない。しかし、冷静になって自分の顔を鏡で見てみると、普通の顔じゃないだろうかと考える。特別に美しく生まれたようには見えない。
母の十八歳の頃の写真を見ても、人が振り向くほどの美人とは思えない。どこにでもいる、普通の女学生が、そこにうつっている。
また、母も私も、容姿をいかした仕事や生活をした覚えはない。外見の評価とは無縁の業界で、日々忙しく働いてきた。
なのに、母はよく、私に「かわいい子だった」と言ってくれた。祖母もよく、母の話をした。そのたびに、私はほほえんで聞いていた。二人の優しい思い出話が好きだった。
けれど、母の思い出をたどるうちに、「かわいい子だったよ」という言葉は、私の心の奥底に確かな存在感をもって生きている言葉だと気づいた。

母の言葉が私を支えてくれた

私はもうじき、七十歳をむかえようとしている。これまでの人生は甘くなかった。
大学を卒業して、教師になり、働き、夫と結婚した。しかし、望んでも望んでも、子どもに恵まれず、不妊治療のため、たくさんのお医者さんに診てもらった。手術も二回した。
迷い、苦しむことも多かったが、そんな私に母はいつも笑顔で「あんたは、かわいい子だったよ」と言った。
母の笑顔とその言葉で、私は元気になり、またがんばれた。
当時は気づいていなかったが、母の言葉が私の自己肯定感の源だったのだ。
「母が笑顔で言ってくれるとおりの、かわいい私になろう、明日もがんばろう」と、その言葉のおかげで立ち上がることができたのだと思う。
私はその後、縁あって男の子をひとり養子にもらうことになった。籍を入れるまで、さまざまな苦難があった。この子の母となるための苦しみだと思って、一つひとつ、がんばって乗り越えた。
そんなときも、母は息子を見て、「かわいい子だよ」「あんたと同じかわいい子だね」と言った。優しい目を私に向けてくれた。
亡き母のその言葉と、優しい目を思い出すと、今でも私は涙ぐんでしまう。私を肯定してくれる母の言葉に、どれだけ支えられていたか、力をもらっていたか。
息子は成長した。反抗期を過ぎ、学校を卒業して就職し、結婚もした。
結婚式当日、披露宴の司会者が「お母様、息子さんはどんなお子さんでしたか?」とマイクを差し出した。私は言った。
「小さいときから、かわいい子でした」
いつのまにか私も母になっていた。