豆塚エリ(まめつかえり)

1993年、愛媛県生まれ。16歳のとき、飛び降り自殺を図り頚椎を損傷、現在は車椅子で生活する。大分県別府市で、こんぺき出版という出版社を営み、詩や短歌、短編小説など精力的に執筆活動を行なうほか、テレビ番組でコメンテーターを務めるなど、幅広く活動中。

絶望の淵から豆塚エリさんを救ったのは、恩師から届いた一編の詩でした。

高校生の頃、飛び降り自殺を図った。頚椎を粉砕骨折し、目覚めたら、二度と、歩くこと、立つことさえ叶わない身体になっていた。
起き上がること、息をすること、しゃべること、食べること、自発的に排泄すること、眠ることも出来なくて、ただ無機質な天井を眺め、退屈しないようにと毎朝看護師さんがつけてくれるFMラジオを聞き流すだけの日々。
呼吸器のせいでのどが渇いて、けれど嚥下が出来ないので水を飲むことすら許されず、少しばかり口の中を湿らせる程度与えられるのをいつも心待ちにしていた。
たくさんの管につながれて生かされているだけで、何ひとつ出来ない自分が情けなく、恥ずかしく、とにかく苦しみから早く逃れたくて、治りたいのと、生きていたくないのとを行ったり来たりしながら、ベッドで仰向けに寝かされ、不安とあせりを募らせていた。
事故から数週間、少しずつ回復の兆しが見え始め、私は面会謝絶の集中治療室を出た。呼吸器が外れ、起き上がれる角度が大きくなり、刻み食ではあるものの、形のある食事を特殊なスプーンを使って自分で取れるようになった。相変わらずトイレは全介助を必要としたし、お風呂にも入れなかったが、それでも呼吸の苦しみや身体の痛みからは解放されて、テレビを観る余裕さえ出てきた。
しかし、今度は別の苦しみが私を苛んだ。学校帰りの同級生たちが私のためにお菓子しやお花を携えてやってくる。
「いつ戻ってこられるの」「また歩けるようになるんだよね?」
彼女らの何気ない気遣いや励ましの言葉。しかし、私はサイドテーブルに置かれたお菓子を口にすることも、花の世話をすることも出来ないのだった。
悪気はないとわかっているのに、いちいち傷ついてしまい、ひどいときは八つ当たりをしてしまった。自業自得だ、と自分を責めながらも、やはり妬ましく、自暴自棄で、無気力に陥っていた。

忘れられない三行の詩

そんなある日、一通の封筒が私のもとに届いた。他校の先生からだった。詩人であり、恩師として仰いでいる方だ。県内の文芸部の活動に尽力されていて、当時文芸部員として他校合同作品合評会の詩の分科会に通っていた私をかわいがってくださっていた。
コンクールで受賞した私の詩作品たちを、私の母校の文芸部OBの方に送り、事情を話して私宛の励ましのメッセージを集めて送ってくださった。その手紙の冒頭には、先生によるものだろう、短い詩が書き綴られていた。
「病室の窓はひらいていますか?
心の窓はひらいていますか?
心の窓をあけましょう」
この詩を、私は未だに忘れられないでいる。OBからのメッセージもかけがえのないものになった。私の詩の感想を綴ってくれた人、その詩に詩で返してくれた人、遠いペンパルに向けて手紙を書くようだと、素直な気持ちで励ましてくれた人……。同じ郷里の顔も知らない詩人たち。私たちは詩を通じて間違いなくつながっていた。
詩集を作ろう、と思った。先生や先輩たちにお礼とともに手渡したい。身体のほとんどが自由に動かせなくなったが、かろうじて指を動かせるのはこれからも詩を書き綴っていくためなのだと、恥ずかしながら運命のようなものを感じた。

些細な善意も、より合わせれば綱になる

友人からもらった古いパソコンをベッドに持ち込み、私は詩作を再開した。出来上がった詩はナースステーションで印刷してもらい、病院のスタッフの方々も読んで感想を言ってくれた。部活の先輩が手作りで詩集を編んでくれた。
それは些細な善意だったのだろう。一本一本はささやかで細いつながりではあるが、それが綱になって私と社会をつないでくれている。
絶望の淵から一転、それまで一生懸命打ち込んでいたことが私を救ってくれた。
今、振り返れば、先生は私の復学が困難であることを悟っていらしたのかもしれない。その後の困難すらも。
学校に通ったり、仕事に就つ いて働いたりするよりも大切なことを、先生は伝えてくださったのだと思う。
それから十年。私は詩を書き続けている。窓は大きく開け放たれている。