第59回PHP賞受賞作

齋藤由香
神奈川県川崎市・着付師・五十四歳

私は都内の結婚式場で、着付けの仕事をしています。今年で十年目になりますが、仕事をしていると、反省や新たな発見が、日々たくさんあります。
私は主に、新郎新婦のご親族や、お母様の着付けをしていますが、お母様は、いろんな想いで、このおめでたい日を迎えられます。
なかには、緊張のあまり、前日から一睡もできない方や、食べ物が喉を通らないという方も、決して珍しくはありません。
そんなお母様を含め、支度部屋にいらっしゃるすべてのお客様が、少しでも心がほぐれるよう、真心を込めて、笑顔で接客をするように心がけています。
「一期一会」といいますが、まさにその通りで、着付け時間は、ほんの三十分ほどです。そのなかでも、いろいろとお話をします。ありがたいことに、これまでに本当にたくさんのお客様のお世話をさせていただきました。
印象に残るすてきなお客様にたくさん出会うことができましたが、そのなかでも私が最も心を揺さぶられた、今でも忘れられないお客様がいらっしゃいます。
その方は、物腰がやわらかく、品のある六十代前半のご新郎のお母様でした。
着付け中の話し方も、とてもたおやかで、「この方は、きっと今までに汚ないものや嫌なことに、あまり縁のない生活を送ってこられたのだろうな。育ちがいいというのは、こういう方のことをいうのだろうな。このお母様に育てられた息子さんなら、きっと優しくて、ご新婦様も幸せだわ」なんて思いながら、準備を進めていきました。

「病院から一番近い式場にするよ」

すると、何かの拍子にお母様が、ふっと別の話をしはじめられました。
「あのね。なぜこの式場を息子たちが選んだかというとね。実は、私たち夫婦には、式を挙げる息子の上に、もう一人息子がいてね。
その息子がね、勤務中に会社で突然倒れてね。術後からずっと意識がなくて、植物状態なの。もうかれこれ五年になるかしら。今はこの近くの病院に入院しているのよ。私たちも五年間ずっと病院通いをしていてね。長いわよね。なかなか容体も好転しなくてね。
次男は、既にそのとき、結婚を約束していてね。でも、『兄ちゃんの意識が戻るまでは、式は絶対に挙げない』と言い張るのよ。それで、どんどん延びてしまってね。
ただ、お相手のご両親も娘さんのことが心配でしょうし、もうお兄ちゃんのことはいいから、早く籍を入れて、式を挙げなさいって、二人を説得してね。
そうしたら、次男が『それなら、兄ちゃんの病院から一番近い式場にするよ』と言うの。それで、ここを探して決めたのよ。私たちもこのあたりは、病院通いでよく知っているところだったし」
お母様のお話を伺いながら、同じく二人の息子を持つ私は、急に胸が熱くなりました。
着付け中にもかかわらず、不覚にも涙がツーッと頬を伝っていきました。なんという悲しいお話だろう。一見、傍から見れば、幸せの塊のようにしか見えないこのお母様が、そんな苦しい思いを抱えていたなんて......。

涙の海を越えてきた優しさ

お話をされるお母様の言葉は、慈愛に満ちていました。この方の優しさは、単に育ちがいいとか、そんなことからくるものでは決してなく、たくさんの涙の海を越えてきたからこそ、にじみ出ているものだと思いました。
そして、兄の快復を心から願うご新郎の愛も、お母様に寄り添っているのだ、と。
「あらあら、ごめんなさいね。私ったら余計なことを話しちゃったわね」
グズグズと鼻をすする私に、お母様はどこまでも優しくコロコロと笑いかけます。
「みなさまの願いが、ご長男様にたくさん届きますように。そして、いつの日か必ず、みなさまに吉報がありますことを、私も心より祈っております。お母様もどうぞ、いつまでもお元気でいらしてくださいね」
そうお伝えして、お仕度会場からお母様をお送りしました。切ないながらも、なんとも言えない不思議な清々しい気持ちで。
「本日は、おめでとうございます」から始まり、「いってらっしゃいませ」で終わる、私たちの束の間の三十分。
そんな「はじめまして」の短い時間でも、人々とのたくさんの出会いのなかには、一生忘れられない、あたたかな思い出をつくってくれるものもあります。
一期一会。一生に一度しか会うことのない、おそらく、この先の人生で二度とお目にかかることはないかもしれない出会い――。
私もこのお母様のように、人の心の片隅に、あたたかなひとときをお届けできる、そんな技術者でありたいと思っています。