浅田慈照(あさだじしょう)
高野山真言宗本山布教師。1963年、和歌山県生まれ。'85年、金剛峯寺で出家得度。'86年、園田学園女子大学卒業後、高野山大学大学院へ進学。娘を2歳で亡くしたのち、生老病死の寄り添いの活動を始める。現在、高野山真言宗本山布教師として、生涯教育センター講師、カルチャーセンターでの坐禅指導を行なう。
「理想の自分」になるより、「今の自分」ができることをする。それが、人生を楽しむ秘訣です。
二十四時間、絶え間なくつらいのは苦しいです。でもね、二十四時間、楽しくて楽しくて......。それはそれで、しんどくないですか?
例えば、私は相手に誤解されて、つらく悲しい時があります。相手のせいにしたいけど、私に足りない点があったことも、分かっている。何とかしたいけど、名案が見つからない。気持ちの持って行きようがなく、終まいにはイライラしてくる。
その時、着信音が。瞬間、意識はそちらへスライド。気持ちがイライラから離れる。ああ、ちょっと楽。着信のおかげで、楽な状態に戻れた。あんな思いは、もうイヤだな。
気持ちは切り替えが大事。クヨクヨしないで、前を向いて。そうよ、私は私の人生の主人公なんだから、主役がめげてどうするの、ダメじゃない。
でも、何かのキッカケでまた、つらかったことを思い出す。せっかく楽になって、忘れかけていたのに。また逆戻り。「楽チン」と「しんどい」を繰り返し、繰り返す。起こっては消え、消えてはまた起こる。浜辺を歩いているようです。一体、何なのでしょう。
これが心の癖なのです。苦しくなりたい癖ではなく、クリカエシタイ癖があるのです。嫌なことを、少しでも遠ざけたいと思う。なのに、ちょっとしたキッカケで、記憶はぶり返す。思い出したくないのに、思い出す。
〈苦〉の反対の状態の〈楽〉も、クリカエシタイ癖があります。楽しかったこと、うれしかったことは、もっともっとと望みます。そして、望みが手に入らなかったら、苦しくなります。良いことも悪いことも、繰り返し続けるとしんどくなる。
でも、繰り返す癖があるんだよね、と認めてあげる。私の心は他人の持ちモノじゃない、私だけのモノ。しんどい時は蓋をして無視する。これも、一つの自己防衛です。
自分以外の〈何か〉にはなれない
私は十九歳でお坊さんになりました。実家はお寺ではなく、一般家庭です。十九歳、女性、在家出身。時々、なぜお坊さんになったのかと質問されます。答えは簡単です。自分以外の〈何か〉になりたかったからです。
お坊さんになると、名前が変わります。着る物も変わる。ヘアスタイルも変わる。そうしたら、人からの見られ方も変わる。自分以外の人になれると考えたのです。
子どもの頃、テレビで「西遊記」を見ました。玄奘三藏さま役は、絶世の美女、夏目雅子さん。ああ、私も髪の毛を刈ったら、あんな美人さんになれるかも( 妄想は自由です)。
お坊さんになる儀式を高野山金剛峯寺で終え、鏡をソッとのぞき込む。私が映っている。当然です。四時間ほどの儀式で夏目雅子さんになったら、美容整形の先生は困っちゃいます。でも、変わりたかったのです。
優しくて慈しみが深く、おだやかで人から好かれ、気持ちの切り替えが上手な人。そんな私の理想の私に、なりたかったのです。一大決心でお坊さんの世界に飛び込む。お坊さんになったら変われる。そう思ったのです。
本当の「自分」は、どこにもいない
四十年が経ちました。鏡の中には、変わらぬ私がいます。変われなかったのです。それでも、お坊さんを続けています。師僧に出会ったからです。
ある日、お師僧さんは私に、こんな質問をなさいました。
「慈照、車は何でできているかな?」
答えは簡単! ボディ・タイヤ・エンジン・ハンドル・ブレーキ、えーっと、えっと。
「車に〈車〉という部品はあるかな?」
やだぁ先生、そんなパーツはないでしょう。
「おまえはいつも言う。今の私は本当の私じゃない。こんな私じゃない。今は見つけられていないけど......と」
自分探しをしている私に、お師僧さまは車を解体して、〈車〉という部品を見つけられるかな? そんな部品は存在するのかな? と投げかけてくださったのです。
車の存在意義は、人を乗せて走ることです。何を運ぶ? どこへ行く? 何人で?
病気の人を助けたいなら、救急車がいい。街走りには、小回りの利く軽自動車が断然便利です。大勢での旅なら、バスが良さそう。風を感じるなら、スポーツタイプでしょうか。
組み上がった車の性能を見れば、私の走りは決まります。私が何か、ではなく、私が何をするか、が重要なのです。
感情の起伏が激しく、すぐ腹が立つ私。一言多くて人を凹ませる。よかれと思ってしたことが仇になる。謝れない意固地さ。私はトラブル部品を取り除こうと、一生懸命でした。
「私が生まれてきたのは、きっと前世の積み残しを清算するため。ここで努力しなきゃ」
そう思っていたんです。
自分の「良い部品」を磨こう
ある時お釈迦さまに、死ぬのが怖くて仕方がない人が訊きました。
「死んだ後は、どうなるのですか?」
お釈迦さまは、こう答えます。
「この世で悪い行ないをした人は、水面に石を置くように、地獄・餓鬼に落ちる。この世で善いことをした人は、水中に油を入れた時のように、人天に生まれる」
私は今、人間に生まれています。前の世で善いことをした証拠です。プラスマイナス0ではなく、かなり善いことをした結果が、この私です。
人の顔色を見るのが得意な目。誰とでもおしゃべりができる口。
人の評価をスルーする便利な機能付きの耳。寒さに強い寒冷地仕様の体。これが私に備わった大切な部品です。
私は良い部品の管理を怠おこたっていました。良い部品も、日々のメンテナンスが大事です。放置したら、錆びる錆びる。悪い部品があるなら、すかさず外注に出せばいいのです。
時間は無限ではありません。生まれたら、必ず死にます。「何になるか」ではなく「何をするか」。それが日々、安楽に過ごすコツです。