第61回PHP賞受賞作

古垣内 求
大阪府泉大津市・無職・81歳

啓介くんと初めて言葉を交わしたのは、入社式のときだ。
青白い顔に痩型、無口。そんな男だった。同じ会場にいた陽気な仲間たちの輪に入れず、早くも
田舎に帰ろうかとさえ思っていた僕は、彼を見て少し安心した。
彼とは寮で相部屋となり、和歌山の梅農家の長男だとわかった。僕は、長野のリンゴ園の長男だ。リンゴと梅の違いはあるが、農家の長男が、親の反対を押し切って証券会社に就職した点がよく似ている。
研修が終わるとすぐ、営業に一人で出るようになった。だが、どこもまったく相手にしてくれない。いつか先輩方のような立派な営業マンになれるだろうか。彼も毎晩、同じ悩みを抱えて帰ってくる。二人で毎晩のように、将来の不安を語り合った。
しかし、そうして半年が経った頃、彼は大阪支店から、東京本店の総務部へと急に配置転換され、僕のもとから去っていった。営業失格と判断されてしまったのだろうか。東京と大阪に離れ離れとなり、彼との交流もそこからぱったり途絶えてしまった。
それから、30年もの月日が過ぎた。
その頃、世間は不況の只中で、僕の会社も希望退職者を募り、会社の規模を縮小する事態に陥った。とにかく利益を確保するべく、残った社員も多くが営業に駆り出された。
そして、あの配置転換以来、ずっと総務一筋だった啓介くんも、そのなかに含まれていた。それも、僕のいる大阪支店への配属である。僕たちは30年ぶりに、また同じ職場で働くことになったのだ。
「俺はまた営業に出ると決心した。松下幸之助も言っただろ。"諦めたときが失敗だ"と。俺は諦めない。きっと成功してみせる」
久しぶりに話を聞いてみると、営業に対する彼の決意は想像以上に固かった。
しかし、正直なところ、30年も前に営業から外された彼が、なんの人脈もないまま今更営業で成功するのは無理だろう、と僕は思っていた。案の定、それから2年近くが経っても彼の成績はノルマから程遠かった。

営業マン3千人の頂点へ

そんなとき、彼に一本の電話が入った。
この2年、彼が何度も足を運んでは、門前払いされ続けた会社の社長からだった。
「明日、当社にお越しいただきたい」
いったいなんの用件だろう。すると彼は、心細いのか、僕に同行してほしいという。
翌日、二人が社長室へ案内されると、いかにもやり手らしい社長が待っていた。赤ら顔に太った体、鋭どい目つき。啓介くんとはまるで正反対の風貌だ。
「君が山本くんか。先日は南高梅をありがとう。大好物だ。2年間、一度も会わず、少しの注文も出さずに悪かった。降参だ。明日からN社との取引を中止し、御社と始めることにする。明日の朝7時、席にいるように」
社長は見るからに上機嫌だった。
約束の翌朝7時、彼の席で電話が鳴る。
社長からだ。なんと、夜のうちに大手N社から大量の株を我が社へ移管したという。その言葉通り、その日の業務が始まると次から次に、取引所へと大口の注文が殺到した。
30分ほどして、あまりに急なことで少し戸惑っていた社内がようやく湧きあがり、拍手と歓声に包まれる。全国の支店から、問い合わせや驚き、喜びの電話が入り始める。
午前の取引が終わる11時まで、注文の電話は一度も鳴り止まなかった。あの社長は、N社の中でも最高の上客だったのだ。
その日の啓介くんの売り上げは、本支店60店の売り上げ合計を遥かに上回っていた。これまで彼を軽んじていた人事部長も態度を一転し、彼にこのまま営業として働くよう念を押し始めた。
入社わずか半年で営業から外された啓介くんが、この日一日にして、全営業マン3千人の頂点に立ったのだ。

再びの別れ

それから一躍会社の宝となった啓介くんだったが、その2年後、なんと過労で倒れてしまう。するとすぐ、あの社長からの注文もぱったり途絶え、慌てた役員が社長を訪問しても、一切取り合ってもらえなかった。
それからほどなくして、啓介くんは会社を辞めた。僕たちの道は再び分かれた。
呆っ気ないように見えるかもしれない。しかし、一年目のあの頃、毎晩のように彼と不安な気持ちを語り合っていなければ、僕はとっくの昔に営業マンを諦め、長野のリンゴ園へ帰ることになっていただろう。思えばあの頃から、彼に"諦めるな"と励まされ、慰められ、知らぬ間に夢も与えられていたのだ。
若い僕を鼓舞し、一時は自分の成功も掴んだ啓介くん。今頃どうしているだろう。彼にも静かな老後が訪おとずれていることを願っている。