大野 裕(精神科医)

1950年、愛媛県生まれ。慶應義塾大学医学部卒業。日本における認知療法の第一人者。著書に『こころが晴れるノート』(創元社)など多数。認知療法活用サイト「こころのスキルアップ・トレーニング」(https://www.cbtjp.net/)を発案・監修している。

心の強さとやさしさは、人間に興味を持つことから生まれます。

「心が強くて、やさしい人」というのは、自分自身を含めて人間に純粋に興味を持てる人だと私は考えています。それは、良い面だけでなく、好ましくない面にも目を向け、さらに一歩進んでいけるように手助けできる心の姿勢です。
人間に純粋な興味を持っていると、他の人にはもちろんのこと、自分にもやさしくなれます。思うようにいかないことに出合っても、自分や他の人を許し、先に進むことができるようになります。逆境でも心が折れないで、相手の人や自分が期待する現実に向けて進んでいけるようになるのです。
私の米国留学時代の恩師で、今では親しい友人でもある精神科医アレン・フランセス先生は、まさにそのような人です。
私が米国に留学したのは、1985年のことです。研究目的で留学する医師が多いなか、私は臨床体験を積みたくて留学しました。
米国のコーネル大学附属病院で、臨床活動をしながら勉強できる機会があるという知らせを受けて、米国で医師として活動できる試験に何とか合格した私は、「取るものも取りあえず」観光ビザを使って渡米しました。
しかし、渡米はしたものの、私の期待に反して、なかなか医師としての活動を始めることができません。活動を始めるための手続きが煩雑だったうえに、日本は学問的には後進国だと考えられていたからだろうと思います。もちろん、私の英語の実力も不十分でした。悩みながらも、家族に支えられて日を過ごすうちに、一年が経過しました。
そのときに出会ったのが、コーネル大学医学部の精神科の教授の一人だったフランセス先生です。ある日、忙しい仕事の合間にゆっくり時間を取って、芝生の上で私の話を聞いてくれました。遠く日本から、わざわざ米国まで来たことが不思議だったようです。私は、自分の思いを一生懸命話しました。
私の話に耳を傾けていた彼が言った「カローラを作っている国から来たのだから、きっと良い仕事ができるよ」という言葉は、今でも忘れません。私はそのとき、私に関心を持ち、私を支えようと考えてくれている彼のやさしい心を感じたのです。

ヒント1:相手の問題点をきちんと伝える

その後、彼はことあるごとに私に仕事の機会を提供してくれました。世界的に使われている「精神疾患の診断・統計マニュアル第四版」の委員や世界保健機関の研究のメンバーにも推挙し、私が困るようなことがあると適切なアドバイスをしてくれました。
彼が責任者をしていたコーネル大学附属病院の外来で、妻に暴力を振う男性の治療に私が難渋していたときのことです。その男性は、自分の出身地では女性に暴力を振るうの が普通のことなのだと言って、いっこうに行動をあらためようとしません。
フランセス先生は、その男性と私を自分の部屋に呼び入れて、そのような行動を続けていると自分自身が困ることになると、しっかりした口調で言いました。 
毅然としたフランセス先生の姿に、その男性に興味を持ち、思いやる心を感じました。その裏には、問題にきちんと対処できるはずだという、その男性に対する信頼が感じられました。男性も同じ思いだったのでしょう、家庭内での暴力的な行動が少しずつ減っていきました。

ヒント2:現実を受け止めたうえで励ます

私たちが生活するなかで思うようにいかないことが起きるのは、そう珍しいことではありません。思いがけない問題に直面すると、私たちは、それが現実でなければと考え、恨みにさえ思ったりします。しかし、そうした考えにとらわれたままでは、先へ進めません。
良くない出来事が起きたという事実は、いくら頭のなかで否定しても消えることはありません。そこで大事なのは、良くない出来事が起きたという現実を受け止めることです。そして、どうなることを望んでいたかという自分の望みをはっきりと意識することです。そうすれば、今の現実にどのように取り組めば自分が期待する現実に近づけるのか、その手立てを考えることができるようになります。
そのときに、自分が期待する現実が実現可能かということを冷静に判断する強さはもちろん大事です。そしてそれ以上に、思うような結果にならなかった心の苦痛に寄り添いながら、期待する現実を実現できる力を持っていることを認め、伝えるやさしさも大切です。

ヒント3:人に興味を持ち、大事にする

このような強さとやさしさは、他の人との人間関係で大事になるだけでなく、つらい状況に直面したときに、自分らしく生きていくためにも大事です。
じつは、私が出会って数年後に、フランセス先生を悲劇が襲おそいました。彼の妻が悪性の脳腫瘍にかかっていることがわかったのです。それを知った彼は仕事を辞め、妻と一緒に海辺で過ごすことを選びました。精神医学界の世界のリーダーの一人だった彼の行動に、米国内外の多くの精神科医が驚おどろきました。
彼は、そうした栄誉をすべて捨てて、妻のためにすべての時間を使うことにしたのです。これもまた、人に興味を持ち、人を大事にする彼だからできたことでした。
米国滞在中に、このように強くてやさしいフランセス先生に会えたのは、私にとって幸運でした。私が患者さんのために勉強したいという自分の思いを大事にしていたことが伝わったからこそ、彼は私を支えてくれ、今なお交流が続いているのだと考えて、ちょっと嬉しい気持ちになっています。そのおかげで、私も少しばかり強くてやさしい人間になれたように思います。