第61回PHP賞受賞作

大石さち子
神奈川県横浜市・元団体職員・64歳

ある夏の夕方、近所の児童養護施設の前を散歩していると、隣の公園から「降りろ!」と大声が聞こえてきた。
見ると、公園では、赤鬼のように顔を真っ赤にした管理人らしき男が、小さくやせこけた少年を怒鳴りつけていた。
少年は、掃除道具の入ったプレハブ小屋の上からぽんっと飛びおりた。
「親がいないからってバカにしやがって!」
少年は吐き捨てるように言った。そして、事の成り行きを呆然と見守っている私を見て、ニヤリとした。
少年の名は、昭。
児童養護施設で暮らしていて、歳は九つだという。
公園で何度か会ううちに、昭は私に胸のうちを語るようになった。おばさんが差し出すお菓子やジュースに、興味を示したのかもしれない。
「お父さんはアルコール依存症で、僕は小さい頃からぶん殴られたり、ぐちぐち嫌味を言われたりしたよ。家は、いつも地獄だった。
木刀で家中を追い回されたり、輪ゴムで目をねらいうちされたりもした。熱いアイロンを太ももに押しつけられたこともある。顔を床にたたきつけられて、鼻の骨を折ったこともあるよ」
父親からの壮絶ないじめを告白され、私は混乱した。どんな言葉をかけるべきか悩みながらも、「お母さんは、どうしているの?」と恐る恐るたずねた。すると、昭はうれしそうに答えた。

「昭ならできるよ」

「お母さんはね、すごくきれいで優しいの。夜、寝ているお母さんのところに行くと、あったかい毛布にくるんでくれて、朝まで一緒に眠るんだ。
お父さんに怒られたり学校でいじめられたりしても、お母さんと一緒だと、安心してぐっすり眠れるの。胸にたまったモヤモヤやムカムカも、あっというまになくなる。お母さんの毛布は、魔法の毛布なんだ」
そう言うと、昭はほほえんだ。
「あったかい毛布の中で、お母さんといろんな話をしたよ。いつも話すのは将来の夢。
僕、将来は建築士になりたいんだ。きれいな家を建てて、お母さんを幸せにするの。お母さんはいつも、『昭ならできるよ』って言ってくれたんだ」
昭はそう言い終えてから、ポツンとつぶやいた。
「......でも、お母さんはガンで死んじゃった」
その後、「勝手に生きていけ」という父の言葉によって、昭は施設へ送られた。
施設での生活は大変だった。子ども同士のいじめや、先生からの理不尽な注意。昭は、何もかも嫌になって、「施設をぶっこわしてやる」と毒づいたこともあったという。
しかし、昭は負けなかった。施設の埃だらけの二段ベッドで、母の形見の毛布にくるまり、優しかった母を思い出して、眠りについていたという。
「やわらかい毛布はあったかくて、お母さんのにおいがする。毛布にくるまっていると、僕を見つめていた優しい目を思い出すんだ。そのたびに僕は、『いつかきっとここをぬけ出して、建築士になってやる』って思うんだ。僕、天国のお母さんのためにがんばるよ」

昭からの手紙

それから昭は、どうなったのか?
学校に行けば「施設の子」とさげすまれ、施設に帰れば、週末になると親に会える子をうらやましく眺めた。
それでも、昭は必死に生きた。建築士になるという夢を持ち続けて。
先日、久しぶりに昭から手紙が届いた。
「僕はいま、幼い頃からの夢だった建築士になり、毎日幸せに過ごしています。
自分の幼い頃の記憶をたどってみると、ぼろぼろの畳にザラザラと砂をまかれているような感じがします。でもいまは、そこに住む人たちが愛を育めるような家を建てたい、そんな思いでいっぱいです。
お母さんは亡くなっても、きっと天国で僕を見守り続けてくれています。お母さんに、恩返しがしたかった」
ふいに、汚れたセーターを着て、穴のあいたズックを履いていた幼い昭の姿が、目に浮かんだ。
施設の中庭で、年下の子ども達をかばうように遊んでいた昭。
そんな昭が、若竹のようにすくすく育ち、雨や雪をはね返して、いまでは枝を広げた大木になりつつある。
手紙を読み終えた私の心は、まるで毛布でくるまれたように、あたたかくなった。