第62回PHP賞受賞作

中石川和巳
埼玉県草加市・無職・64歳

子どものころ、私は体が弱く、運動も苦手でした。食べきれない給食が五時間目まで机の上にあり、体育の時間も見学ばかりするような子どもでした。
それでも、成長とともに体が丈夫になり、運動できる喜びやスポーツの楽しさも少しずつわかってきました。
やがて私は、小学校の教師になりました。体の弱かった子どものころを取り戻すかのように、若さと体力で子どもたちに全力でぶつかっていきました。
そんな私に、「だからと言って、忘れるな。体の弱い自分がいたからこそ、運動の苦手な子、体育が嫌いな子の気持ちもわかるはずだ。それは、お前にしかできないことだ」と言ってくれた人がいました。
うわついた私に釘を刺さし、何かとめんどうを見てくれたのは、各校の体育主任の集まる場で出会った、S 先輩でした。
それから、子どもの健康や体力が、教師としての私の大きなテーマになりました。
たくさんの仲間たちと切磋琢磨しながら、体育の授業づくり、子どもたちのスポーツ大会の運営などに没頭していきました。
のちに校長となり一校を任されるようになってからも、「元気な子」が学校づくりの土台でした。休み時間は校庭に出て、子どもたちと思い切り遊びました。夏はプールで真っ黒になり、冬は一緒にマラソンを走りました。

「チャンスじゃないか」

しかし突然、私の体を異変が襲ったのです。
子どもたちと大なわとびをしていたときでした。何度やっても、思うように跳べません。へたくそというレッテルを子どもたちに貼られてしまいました。
最初は単に年のせいだと思い、さまざまな健康法を試してみましたが、体の違和感は増すばかりで、一向に消えません。
自分ではわからないものの、歩き方がおかしいと言ってくる人もいます。時々、手も震えます。仕方なく、病院へ行きました。
検査の結果、ある脳神経系の病気に罹患していることがわかりました。命にかかわるものではありませんが、重症になれば難病に指定される病気です。治療や手術で治るものではなく、症状の進行を服薬で遅らせることしかできません。
毎週、全校朝会で壇上に立つと、全身が小刻みに震えるようになりました。
全校児童が、教職員が、それを見ています。
休み時間にも、校長室から出ないことが多くなりました。少しずつ、しかし確実に動かなくなっていく自分の体におびえながら、私は目標を失っていきました。
私は、体の弱かったあのころに戻ったような思いでした。
そんな私を心配して、わざわざ学校まで訪ねて来てくれたのが、S先輩でした。
「チャンスじゃないか」
厳しいS先輩の顔がやわらかくなりました。
「病気と闘って生きている姿、動かなくなっていく体を、そのまま隠さず子どもたちに見せてやれ。それこそ最高の教育だ。お前にしかできないことだ」
そんなS先輩も、退職後にがんを患らい、胃の大半を失っていたのでした。先輩の言葉は、魂の叫びのようでした。

またどこかで、先輩と

私は、覚悟を決めました。できないことはできない。しかし、できることは、まだまだたくさんある。病気には絶対に負けないと、S先輩に約束をしました。
それから定年までの日々は、無我夢中でした。病気のことは、隠しませんでした。
同情を誘うためでも、迷惑をかけることへの弁解でもありません。自分にしかできないことを必死に探り、実行する毎日でした。
教育委員会や職場、家庭や地域の人も、私のわがままを認め、支えてくれました。
そして退職の年の最後の卒業式では、子どもたちと一緒に、胸を張って、校庭の花のアーチをくぐることができました。
その後まもなく、S先輩は、お亡くなりになりました。私の病気も難病の指定を受けるまで進行し、自宅で療養に専念しています。以前のように思い切り体を動かすことはできませんが、杖をついて散歩に出れば、たくさんの人とあいさつを交すことができます。
決して後ろ向きになることはありません。
それでも迷ってしまうときには、必ずS先輩のあの声、あの言葉がよみがえります。
「お前にしかできないことだ」
私が私として生きる意味は、必ずあるはずです。
またどこかで、先輩とうまい酒を酌み交わすことができる日まで、「私にしかできないこと」を模索しながら、精いっぱい生きていきたいと思っています。