第64回PHP賞受賞作

伊東一栄
徳島県・看護師・62歳

彼女と別れて、早20年。寂しさと悲しさで心が空っぽになった日々を思い出す。
彼女(ミコ)との出会いは、看護学校の入学試験だった。入試1日目、受験会場となるのは、病院に併設され、少し坂道を登った高台にある看護学校だった。当日、車が坂道の途中で渋滞を起こした。坂道停止した車のバックミラー越しが、彼女との出会いだった。
駐車場に到着し、ミラー越しの彼女と並列駐車した。おたがいに車を降り、「緊張しますね」とぽつりと話した。多くの受験者の中にだれも知り合いはおらず、駐車場で偶然出会った彼女とのほんの少しの会話で心が和んだ。そして、無事2日間の入学試験は終了した。
私はすでに准護師資格を取得していたが、私事で進学していなかった。結婚後に6カ月の乳飲み子を抱え、少し遠回りして正看護師資格取得へ挑戦した。
彼女との再会は、看護学校の入学式だった。彼女は、ダントツに明るくすてきな人だった。私より少し年下であるが、なぜか親近感と運命的な出会いを感じた。
学舎では、気心が合い人生経験も豊かな5人組の仲間ができた。私は2年間、乳児保育所にわが子を預けながら学業と家庭の両立にはげんだ。唯一の楽しみは、毎週土曜の放課後に、5人で2時間ほど喫茶店で過ごすことだった。そして、学業や実習に苦労しながらも、2年間の看護学生生活にピリオドを打つ。

何でも話せる妹のような存在

それぞれが新しい職場で意気揚々と正看護師として働くこととなり、偶然にも彼女とは同じ病院で働く仲間となった。病棟はちがうが、休みの日は一緒に出かけ、ともに時間を過ごすことも多かった。彼女は何でも話せる妹のような存在で、私のことを「姉さん」と呼び、実姉のように慕ってくれた。
数年後、彼女も結婚し、三児の母となる。事態が一変したのは、彼女が次女を出産した後だった。不正出血が収まらず、セカンドオピニオンで県立病院の門をたたいた。診察の結果、ステージⅣの子宮がんで、余命半年と宣告された。現実を受け止められない衝撃が走ったが、その後も彼女は元気に働き続けた。
しかし、体調不良を訴えて入院する日がやってきた。余命宣告を受けてから数年後の出来事だった。彼女は入院後も先進医療を期待し、大学病院のセカンドオピニオンを受けた。だが、結果が変わることはなかった。
私は毎週、病院近くの花屋で花束を買い、彼女に会いに行った。彼女と会えるのが、何よりもうれしかった。いつ訪ねても、病室の花は生き生きと咲き誇っていた。私たちは病院の屋上や人気のない廊下で、時間の許す限りたわいない話をした。
約1年が過ぎたころ、抗がん剤と麻薬の副作用で、嘔吐や幻覚があらわれた。日に日に衰弱していく彼女だったが、病室に顔を出す私を満面の笑顔で迎えてくれたのは、彼女の精いっぱいのもてなしだったのだろう。
彼女は入院前から、抗がん剤の副作用で髪がなくなるからとかつらを準備していた。かつらをかぶりながら「どう、似合う?」とはしゃぎ、私も笑って一緒にはしゃいだが、病室をあとにするときは涙がとめどなく流れた。
お見舞いに行ったある日の別れ際、彼女は「姉さん、今までありがとう」と言った。私は「何言うの。まだまだ今から元気になって一緒にがんばっていく約束したろ」と話した。
悪い知らせを受けたのはその2日後、12月2日の午前10時ごろだった。仕事中に病棟師長から彼女の死を知らされた。私の願いは届かず、忘れもしない彼女との思い出が、走馬灯のようによみがえった。
葬儀には、忘れ形見の幼い3人の姿があった。人が集まるのがうれしいようで走り回っている。この子らの成長を見守れなかった彼女は、どんな思いで世を去っただろう。年老いた両親のことも心配していた彼女は、どんなに生きて親孝行したかっただろうと思った。
思い返せば、彼女が亡くなる2日前、朦朧した中で「今までありがとう」と言ったのは、死が近いことに気づいていたのだろう。

天国で楽しんでいるか

悲しい別れから1年がたったころ、お見舞いで買っていた花屋さんから、突然、両手に余るほどの大きな花束がわが家に届けられた。きっと、彼女からのプレゼントだと涙がこぼれ落ちた。今でもずっと、鮮明に覚えている。
それから彼女の命日には、同級生の3人と集まり、墓前で「今年も来たよ」と、なつかしい話をするのが恒例となった。毎年、黄色と白のぽんぽん菊をお供えする。愛煙家だったので、タバコも1本添えて火をつけた。
彼女の屈託のない笑顔を、いつまでも忘れることはないだろう。今、私は還暦を過ぎて62歳を迎えたが、ミコよ、天国で楽しんでいるかと心の中で叫び続けている。

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