人間というものはね、それぞれ天命というものがあると私は思うんですね。努力もせないかんし、誠心誠意働きもせなならん。けども、それは、一応決まった運命のうちから見るとね、その何パーセントのものである。まあ人生というものが100パーセントで申すならば、もう決まった運命というものが70パーセントほどあると。あるいは80パーセントあるんだと。あとの20パーセントだけが、知情意の働きによってですね、それを左右することができるんだと。だから人間というものには、もう動かすことのできない一つの運命というものが与えられていると。これをね、承認をして初めて世の中に立って行くと。そうすると20パーセントの知情意によってですね、自分の運命をある程度動かすことが可能になってくると。こういうように私は思うんです。

 もし他の家庭に生まれていれば、もしあのときあの出来事がなかったら――そんなことを考えたことはないでしょうか。 考えてみれば、男女どちらに生まれるか、この広い世界の中でどの国のどの土地に、またどのような家庭に生まれるかということ、あるいは人生を歩む過程で起こるさまざまな出来事等々、私たちには、それぞれに自分ではどうしようもない何か大きな力、いわば運命というものが与えられているようです。

 PHP研究所の創設者であり、一代で世界的な企業グループを育て上げた松下幸之助は、人生のほとんどの部分がいわゆる運命によって決められているのではないかと言います。晩年にはその比率は90パーセントと言うこともありました。

 「そのようなことを言われたら、やる気がなくなるのではないですか」という問いに、「いや、そうではない。人間に残された10パーセントの人事の尽くし方いかんによって、みずからの90パーセントの運命がどれだけ光彩を放つものになるかが決まるのではないか」と答えていました。 それでは幸之助は、置かれた境遇、次々に起こる出来事にどのように向き合い、みずからの運命に光を当ててきたのでしょうか。

 幸之助は明治27年11月27日、和歌山県海草郡和佐村字千旦ノ木(現在の地名は和歌山市禰宜)に生まれました。そこは和歌山市の中心から7キロほど東、紀ノ川南岸に連なる農村地帯で、屋敷内には樹齢800年は経つという松の大樹があり、松下の姓はそのことからきていました。 父親の名前は政楠、母親はとく枝、家は小地主で、明治23年に自治制が布かれたときから政楠は村会議員を務めていました。幸之助は8人兄弟の三男末っ子であっただけに、両親に特にかわいがられて育ったと言います。

 子守りとともに川で魚を取ったり、夕方には背中に負われて家路についたことなど、幸之助はおぼろげに覚えていると回想していますが、そのような平穏な生活は長くは続きませんでした。家が傾くような出来事が起こったのです。

(月刊「PHP」2007年1月号掲載)


松下幸之助とPHP研究所

PHP研究所は、パナソニック株式会社の創業者である松下幸之助が昭和21年に創設いたしました。 PHPとは、『Peace and Happiness through Prosperity』の頭文字で、「物心両面の調和ある豊かさによって平和と幸福をもたらそう」という意味です。

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