いま静かに考えてみますと、末っ子の、かわいい9歳の子供を、自分の膝元から遠くへ手放さなければならなかったということは、母としてはこの上もなくさびしくつらいことだったと思いますね。

 そして、おそらく、そのときの母は、大阪へ行ってからのぼくの幸せ、ぼくの健康というものを、言葉では言いあらわせないくらい念じていてくれたように思うのです。

 この、あふれるようなというか、ひたすらな母の愛情が、いまなおぼくの心に脈々と生きつづけ、ぼくを守り、あたたかくつつんでくれているように思うのですな。ぼくが今日あるのも、ぼくの将来を心から祈ってくれた母の切なる願いの賜物だと思います。

 松下幸之助が尋常小学校2年生のときのことです。父の政楠は期するところがあり単身大阪に出て、当時創設間もなかった大阪盲啞院に職を得て、そこで働くようになりました。その父親からのわずかの仕送りによって、松下家の生活は支えられていました。 

 幸之助が4年生、9歳の秋、それも11月半ばになって父から、「幸之助ももう少しで卒業だが、大阪の八幡筋にある宮田という火鉢屋で小僧を欲しがっている。ちょうどよい機会だから幸之助をよこしてくれ」という手紙が母親に届いたのでした。このようなことで、幸之助は4年修了を目前にして、たった一人で大阪に丁稚奉公に出ることになったのです。

 南海鉄道(現在の南海電鉄)の紀ノ川駅まで、母・とく枝は送ってきてくれました。

 なんといってもまだ幼い9歳の子供、母親としては心配でたまらなかったのでしょう。プラットホームから窓越しに、幸之助の隣の席に座っている乗客に頭を下げ下げ頼んでいました。

  「この子は一人で大阪にまいります。あちらに着けば迎えが来ておりますので、どうか途中をくれぐれもよろしくお願いします」

 そして目に涙を浮かべながら、「体に気ィつけてな。精出して奉公先のご主人にかわいがってもらうんやで……」と、汽車が出るまで幸之助の手をしっかりと握りつづけていました。その手のぬくもりは幸之助にとって生涯忘れられないものとなりました。

 この母・とく枝は幸之助が18歳のとき、57歳で亡くなっています。幼くして奉公に出たために、母親の愛情を受けることの少なかった幸之助でしたが、母を語るときはいつも目頭を熱くしながら、紀ノ川駅での思い出を語りました。そしてこう言うのです。

 「母の愛情というようなものはですね、非常に深いと申しますか偉大と申しますか、まあそういう愛情をこの年になって感ずるわけで、今、母がおればなあ、どんなにでもしてあげるのになあというような感じがするんです」

 

 

(月刊「PHP」2007年3月号掲載)


松下幸之助とPHP研究所

PHP研究所は、パナソニック株式会社の創業者である松下幸之助が昭和21年に創設いたしました。 PHPとは、『Peace and Happiness through Prosperity』の頭文字で、「物心両面の調和ある豊かさによって平和と幸福をもたらそう」という意味です。

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