皆さんは相当に運をもっていると私は思うんです。生き残って大学に学んだということは、ある程度の運をもっておるわけです。その自己認識ができるかどうかということです。これはたいへんなことです。

 その自己認識ができると、皆さんの心がぐっと、おれは戦に行っても負けんぞという気になるんですね。そういうことによって、人生というものはぐっと変わってくる。おれはこういうふうに大学にも学べた、やがて相当の成績で出られるだろう、幸いに今は人が足りないときやからどこへでも行けると。行けたらすぐに活動できるだろう、やがておれは重役とも社長ともなるだろう、面白いな、と考えりゃいいわけですわ。(笑)

 松下幸之助が商売の基本を一から厳しくしつけられた五代自転車商会での奉公生活も、5年4カ月をもって終止符が打たれることになりました。というのは、当時走り始めた市電を見て、「これからは電気の時代になるのではないか。電気の仕事をぜひやってみたい」という強い思いにかられ、大阪電燈(株)の内線工を志願したからです。それは幸之助自身が人生で初めて行なった決断でした。

 大阪電燈にすぐに採用されるはずでしたが、欠員待ちということで、仕方なく、義兄の勤めるセメント会社に臨時運搬工としてしばらく雇ってもらうことにしました。その会社は大阪湾の埋立て地にあった関係で、築港の桟橋から小さな蒸気船に乗って通わなければなりません。

 ある日のこと、幸之助が帰りに船べりに座って夕日を見ながら涼風に吹かれていると、そばを歩いていた1人の船員がどうしたはずみか足を滑らせ、海中にまっさかさまに落ちたのです。そのときに思わず幸之助の体を抱きこんだからたまりません。幸之助も海中深く沈んでしまいました。もがきにもがいて水面に顔を出したときには船はかなり遠くまで行っていて、ちょうど回転し引き返そうとしているところでした。

 幸之助は無我夢中で泳ぎました。幸い幸之助に多少の泳ぎの心得もあり、夏でもあったので、おぼれずに無事救出されることになったのです。

 幸之助は「もし冬の寒いときであったら、今頃は西方浄土に遊んでいたかもしれない」と言い、「自分は運がよい人間だ。これほどの運があればある程度のことはできるぞ」と、その後仕事をする上で大きな自信になったと言います。

 冒頭の言葉は早稲田大学の学生に対して行なった講演の一節ですが、さまざまなところで、このみずからの体験を紹介をしながら、「自分の運を信じよう。恵まれた境遇にいながら自分は運が悪いと、自分で自分の不幸を探すようなことだけはしてはならない」と訴えていました。

 大阪電燈に欠員ができて、幸町営業所の内線見習工として採用されたのは、3カ月後の明治43年10月21日、15歳のときのことでした。

 

(月刊「PHP」2007年8月号掲載)


松下幸之助とPHP研究所

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