その時分は、そらもうね、相当な家のお嬢さんとかね、坊ちゃんやったらね、料理屋でも行って見合いするのか知らんけどね、われわれ風情やったらそんなにあんた、料理屋使たりするのはでけへんしね。

 まあ、すれ違いでね、お互い見合いしよ、っちゅうようなもんでんな。2人が話をするなんてことはおまへんのや。

 けれど、やっぱり縁があったと申しますかね、顔も見んとね、済んだ見合いであっても、まあ、50年こうして一緒に来られたちゅうことは、そら1つのやっぱりそういう縁があったわけですね。手が込んだ見合いをしても1年もせんうちに別れる人もあるしね。まあ、人間の運命というものはなかなか計り知れないもんですね。

 松下幸之助が1つ年下の井植むめのと結婚したのは大阪電燈に勤めていた20歳のことでした。

 8人兄弟の三男末っ子に生まれた幸之助でしたが、そのときすでに両親をはじめ2人の兄、3人の姉を亡くしていました。残っていた長姉が、男子として松下家を継がなければならない幸之助に、折々に「そろそろ身を固めたらどうか」「こんな人がいるのだがどうだろうか」と結婚を勧めていました。最初は “まだ若いから” と断っていましたが、やはり自分が先祖祭りをしなければならないという意識もあり、だんだんその気になっていました。

 そんなある日、また、「知り合いの炭屋さんからこんな人があると勧めてくれたが、どうだろう。聞けば淡路の人で、高等小学校を出て今大阪で家事見習いをしているということだが、とにかくいっぺん会ってみては」と、縁談話を持ってきたのです。

 機が熟していたということか、幸之助はあまり深くも考えず、OKの返事をしたのでした。

 見合いの場所は大阪・松島の芝居小屋、八千代座の前でした。幸之助は姉夫婦に連れられ、予定の時間に雑踏の中で待っていましたが、相手はなかなか現れません。「遅いな、遅いな」と待つうちに義兄が突然大きな声で、「来た、来た」と叫びました。まわりの人は、「見合いや。見合いや」と囁きます。幸之助は恥ずかしさで真っ赤になりました。

  「幸之助、見よ、見よ」

 義兄の声にわれに返って見たものの時すでに遅く、後ろ姿しか見ることができませんでした。            

 それでも、「そう悪くないぞ。決めとけ、決めとけ」という義兄の勧めで、幸之助は、顔も見ず、話もせずに結婚を決めたのでした。

 このようにして今では考えられないようなかたちで結ばれた2人でしたが、幸之助が平成元年、94歳で亡くなるまで、74年という長いあいだ連れ添うことになったのです。

  またその2年後、幸之助は大阪電燈を辞め独立、夫人とともに事業を起こしますが、この結婚がなければ今日の松下電器もなかったかもしれません。

 縁の妙味や運命の不思議を感じさせられます。

 

(月刊「PHP」2007年11月号掲載)


松下幸之助とPHP研究所

PHP研究所は、パナソニック株式会社の創業者である松下幸之助が昭和21年に創設いたしました。 PHPとは、『Peace and Happiness through Prosperity』の頭文字で、「物心両面の調和ある豊かさによって平和と幸福をもたらそう」という意味です。

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