私の経験からつくづく思うことは、何ごとによらず、志を立てて事を始めた限り、少々うまくいかないとか、失敗したからといって、簡単にあきらめてしまってはいけないということです。

 世の中は常に変化し流動しているものです。ひとたびは志を得なくても、それにめげることなく、「もう一度やってみよう」と、気を取り直して、再び辛抱強く地道な努力を重ねていく。そうすると、そのうちに周囲の情勢が有利に転換して、新たな道がひらけてくるということもあるものです。世の中でいう失敗の多くは、そういう辛抱ができず、成功するまでにあきらめてしまうところに原因があるのではないでしょうか。

 大正6年6月、22歳のとき、思い出多い大阪電燈を辞め独立した松下幸之助は、みずから開発した改良ソケットを世に広めたいと、大阪の猪飼野(現東成区)に借家を借り、その製造販売を志します。そのときの手持ちの資金は、退職金や預金などを合わせても100円にも満たないものでしたが、幸之助は、「前途の光明にからだじゅうが奮っているという状態だった」と言います。

 大阪電燈時代の2人の同僚も加わり、ちょうど高等小学校を卒業したばかりの妻むめのの弟、井植歳男(後に三洋電機を創業)を淡路島から呼び寄せ、態勢は整ったものの、どこで材料を買い、どのように作り、またそれをどれほどの値段で売ればよいのか、すべて一から勉強しなければなりませんでした。それでも、7月から10月まで4カ月間、苦労に苦労を重ねながら、ようやく皆でソケットを作り上げることができました。

  「さあ、出来上がった!! 売りに行こう!」

 見本を持って勇んで売りに出て行きましたが、その結果は惨憺たるものでした。10日間大阪中を駆けずり回って売れたのは100個ほど、10円足らずの売り上げを得ただけで、資金も乏しくなり、明日の生計さえどうなるか分からないというほどの困窮に陥りました。2人の同僚はやむなく、別に職を求めて去っていきました。

  むめのが質屋通いをしたのはこの頃です。今も松下家にはそのときの質屋の通い帳が残っていますが、結婚したとき持って来た着物や帯、さらに指輪まで質入れされたことが記されています。

 しかし、幸之助はしかけた仕事を中止するという心境にはなれず、残った3人で細々と続けていました。ところが“捨てる神あれば拾う神あり”、その年の12月に入ってソケットの練物の品質の良さに注目したK電気から、ソケットならぬ扇風機に使う碍盤1000枚の注文が入り、やっと一息ついたのでした。この注文は引き続き入り、電気器具の開発に本腰を入れることもできたのです。

 このような体験を重ね、幸之助は「あきらめては成功はない」「成功とは成功するまで続けること」という強い信念を培ってきたのでしょう。

(月刊「PHP」2008年2月号掲載)


松下幸之助とPHP研究所

PHP研究所は、パナソニック株式会社の創業者である松下幸之助が昭和21年に創設いたしました。 PHPとは、『Peace and Happiness through Prosperity』の頭文字で、「物心両面の調和ある豊かさによって平和と幸福をもたらそう」という意味です。

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