歴史おもしろデータ [歴史街道]


総力特集:勝負師・徳川家康

勝負師を支えた徳川16神将

四天王を筆頭に家康の家臣には武辺者が揃っていた。

榊原康政(さかきばらやすまさ)
天文17年~慶長11年◆1548~1606
 徳川四天王の1人。若くして先鋒を務め、家康の信頼が厚く、諱の1字を与えられ「康政」と名乗る。姉川の戦いでは朝倉軍の脇を衝き、形勢を逆転させる。外交の任にもあたり、小牧・長久手の戦いでは敵の士気を挫くため、秀吉の悪行を糾弾する檄文を流した

本多忠勝(ほんだただかつ)
天文17年~慶長15年◆1548~1610
 徳川四天王の1人。桶狭間合戦時の大高城兵糧入れが初陣。愛槍「蜻蛉切」を手に、三方ケ原の戦いや長久手の戦いで抜群の武功を挙げる。敵に「家康に過ぎたるものが2つあり、唐の頭に本多平八」と謳われ、50余度の合戦でかすり傷ひとつ負わなかったという

井伊直政(いいなおまさ)
永禄4年~慶長7年(1561~1602)
 徳川四天王の1人。勇猛果敢で知られ、武田家の旧臣を集めた精強部隊「赤備え」を率いる「井伊の赤鬼」と恐れらる。長久手の戦いでは前衛隊として活躍、数々の武功をあげた。その後、徳川家の先鋒は井伊家が承ることになり、その慣例は幕末まで続いた

酒井忠次(さかいただつぐ)
大永7年~慶長元年◆1527~1596
 徳川四天王の1人。今川家の人質となった家康に従い、松平家独立後は家老となる。
「家康の行くところ、必ず白地に朱丸の旗指物(酒井家の旗)翻る」と言われた。長篠の戦いでは鳶ケ巣山の奇襲を進言・実行し、織田・徳川連合軍の勝利を演出した

渡辺守綱(わたなべもりつな)
天文11年~元和6年◆1542~1620
 通称・半蔵。永禄5年(1562)、今川勢との三河八幡の戦いで獅子奮迅の槍働きをみせたことから、「槍の半蔵」と称される。姉川の戦いで旗本一番槍の戦功をあげ、長久手の戦いでは旗本足軽頭を務めた

服部正成(はっとりまさなり)
天文11年~慶長元年◆1542~1596
 その武勇から、「鬼半蔵」と呼ばれる。三方ケ原の戦いで活躍、家康より槍一筋を与えられた。伊賀越えの危難に際し、伊賀者を率いて案内役を務め、家康の危機を救った

大久保忠世(おおくぼただよ)
天文元年~文禄3年◆1532~1594
 天文15年(1546)の初陣以来、数々の戦に参加。三方ケ原では夜襲をかけて武田軍をおびやかし、長篠の戦いでは「駆引きのほとんどは、鬼神をも欺く」と織田信長に称賛される活躍をみせた

鳥居元忠(とりいもとただ)
天文8年~慶長5年◆1539~1600
 天正壬午の乱では、1500の手勢で1万の北条勢を破る。その後、天下人となった秀吉から度々官位推挙の話があったものの、「儂は三河譜代の士、主君以外の人間から貰ういわれはない」と断ったという。関ケ原前夜、伏見城を守って討死

内藤正成(ないとうまさなり)
大永6年~慶長7年◆1526~1602
 家康の父・広忠の代から仕える。弓の達人で、三河一向一揆など数々の合戦で活躍、武名を上げた。本能寺の変後の「伊賀越え」でも家康を支えた

松平康忠(まつだいらやすただ)
天文15年~元和4年◆1546~1618
 家康の従兄弟で義弟。長篠の戦いでは酒井忠次とともに鳶ケ巣山に奇襲を仕掛ける。姉川の戦いや伊賀越え、小牧・長久手の戦いと家康の数々の「勝負」に参加している

高木清秀(たかぎきよひで)
大永5年~慶長15年◆1525~1610
 当初、水野家に仕え、本能寺の変後、家康に仕える。小牧・長久手の戦い、小田原の陣に参加。猛将揃いの三河武士団の中で、家康の作戦参謀としても活躍した

蜂屋貞次(はちやさだつぐ)
天文8年~永禄7年◆1539~1564
 今川家の尾張侵攻の際、家康に従って丸根砦を攻め、軍功をたてる。
永禄7年(1564)、今川方の吉田城攻めに加わり、本多忠勝と先陣を競うが、銃弾にあたり討死

大久保忠佐(おおくぼただすけ)
天文6年~慶長18年◆1537~1613
 忠世の弟。弘治2年(1556)、織田家の柴田勝家が三河福谷砦を攻めた際、これを破った勇将。長篠の戦いでは鉄砲隊を指揮して活躍、「長篠のひげ」と信長より称賛された。幼少より家康の側で多くの合戦に従ったが、生涯、負傷しなかったといわれる

米津常春(よねつつねはる)
?~慶長17年◆?~1612
 家康の父・広忠の代から仕える。永禄3年(1560)、今川家の尾張進攻に際し、丸根砦攻めに参加、活躍した。三河一向一揆が起こるといち早く岡崎城に駆けつけ、一向宗の鎮圧に尽力した

鳥居直忠(とりいなおただ)
?~元亀3年◆?~1572
 大樹寺所蔵の「徳川16将図」には「鳥居直忠」と書かれているが、これは元忠の弟・忠広のことと考えられている。三方ケ原の戦いで徳川軍が大敗を喫した際に殿軍を務め、武田の土屋直村を討つなど家康の浜松城帰還のために奮戦の末、討死した

平岩親吉(ひらいわちかよし)
天文11年~慶長16年◆1542~1611
 幼少から近侍し、家康が今川家へ人質に行った際も随従した。家康の嫡男・信康の傅役を務める。天正壬午の乱では、甲府を拠点に甲斐国内の武田遺臣を掌握・登用に辣腕を振るった